狼少年
 
 
 
そのひとが尋ねてきたのは僕が大学二年生の夏休みに入ったばかりの頃だった。
僕は彼女をまったく知らなかったけれど彼女は僕の名前を知っていた。
そしてひどく真剣な顔をしてこう言ったんだ。

「修司のことで話があるんです」






僕、早川稔と吉田修司の出会いは四年前、高校一年生のときまで遡る。

高一のとき、僕と修司は同じクラスだった。
僕は特に目立つわけでもなくどちらかというと真面目な生徒だったと思う。
よくつるんでいる友達もそんな感じの奴らが多かった。
そんな僕とは反対に修司はなにかと人の目を惹く存在だった。
派手に染めた髪にいくつも開いたピアス。
着崩した制服からはすれ違えばいつもタバコの臭いがした。
そのくせ勉強は出来て人を笑わせるのもうまかった。
修司の周りには常に華やかな空気が流れていて女の子との噂が絶えない。
僕は彼に「要領のよくて軽い奴」というイメージを抱いていた。
まさに僕の嫌いなタイプだった。
そんな僕らの接点はクラスメイトというだけで
言葉を交わしたことすらほとんどなかった。



その僕も実はタバコを吸う。父親の影響だった。
時々学校でどうしても吸いたくなったときは屋上に来てこっそりと吸う。
用務員や先生は週末しか点検に来ないから安心だった。
しかも普段は鍵がかかっていて他の生徒は屋上へ入れない。
それでは僕はどうやって入ったか。
僕は幸運にもある日ドアに挿しっぱなしになっている鍵を見つけたのだ。
その日のうちに合鍵を作り元鍵はそっと戻しておいた。
はじめのうちは先生に見つかりやしないかとドキドキしていたけれど、一週間もするとなれてしまった。
それでもさすがに制服に臭いがついて先生にばれるのが怖くて、
屋上には常に臭い消しのスプレーを置いていた。





夏休みが明けて間もないある日。
僕はひとり屋上でタバコを吸っていた。
青空を見つめながらゆっくり煙を吸い込むと、開放感というか、落ち着くというか、
なんともいえない気持ちよさがあった。
フェンスに凭れて煙をはきだしゆったりとした気分でいると
突然入り口のドアノブがガチャリと音を立てて回った。

僕は慌てた。その日に限って鍵をかけ忘れていたのだ。
僕は急いでタバコを揉み消した。
どうしようか。どこかに隠れようか。
そう考えている間もなくドアは錆びた音を立てて開いた。
固まっている僕の前に現れたのは修司だった。

真っ青な顔の僕を修司はぽかんとした顔で見つめていた。
次の瞬間、修司は突然声を立てて笑い出した。
「あはは・・・、お前、そんな顔しなくても・・・」

なおも笑い続ける修司を見ていたら
僕は急に緊張が解けて一緒に笑い出してしまった。

ひとしきり笑うと修司はドアを閉めて僕の近くへ移動した。
「早川もタバコ吸うんだ」
修司は僕の隣のフェンスに背をもたれてそう聞いた。
「・・・うん」
「意外だなー、早川ってマジメっぽいのに」
その言葉に僕はなぜか少し嫌な気分になった。
「父さんの影響なんだ。気づいたらやめらんなくなってた」
そっけなく答える僕に修司はふうん、と相槌を打った。
どうせ修司はカッコつけで吸っているんだろうとそう思った。

ふと修司が僕の足元に置いてある消臭スプレーのボトルに目を留めた。
「そんなもん使ってんの?」
くすりと笑ってそう言った修司に、僕は馬鹿にされた気分になった。
「僕は吉田とは違うんだよ」
むっとした僕のその声色に横の修司が驚いた気配がした。

「・・・ごめん。別に馬鹿にした訳じゃないんだ」
素直に謝られて僕は少し驚いた。
項垂れているかと思って僕が横を向くと修司はニヤリと笑った。
「ところで、早川どうやってここの鍵手に入れたんだ?」

僕が鍵を入れた経緯を説明すると修司は感嘆の声を漏らした。
「お前、合鍵作っちゃうなんてやるなー」
僕は少し得意になった。
「な、な、俺にも合鍵作ってくれよ。誰にも言わねーからさ。二人だけの秘密」
修司はそう親しげに僕に頼み込んだ。
今まで話したことともなくて僕の嫌いなタイプのはずの修司。
けれどどういったわけか僕はくすぐったいようなうれしいような心地でいた。
そして快く承諾していた。
今思えば、いつも何かを気にしながら生きていた僕は
どこかしら堂々としている修司に心のどこかで憧れていたのかもしれない。

「早川ってさ、下の名前なんていうの?」
修司がタバコに火をつけながら聞いた。
「・・・稔」
「ふーん、ミノルね。みのる」
修司はタバコを深く吸った。
「みのる、俺もみのるって呼ぶからみのるも俺のこと修司って呼べよ」
「え?」
修司はタバコの煙を吐き出してにっと笑った。

「これから仲良くしよーぜ」



僕たちは時々一緒に屋上でタバコを吸った。
それでも僕にとって修司はどこか「違う世界の人間」という感じがして居心地の悪い思いでいた。
それはきっと僕が知らず知らずのうちに修司に憧れるのを制止するかのように生まれる
優越感のせいだったのかもしれない。
それは決して心地の良い優越感ではなかった。
僕は修司に対して僕のほうがまっとうな人生を送れるに違いないと思う反面、
そう思うことがとても格好の悪いことのような気がしてならなかったのだ。
そんな僕をよそに修司は一人でしゃべっていることが多かった。


その日も僕はタバコを吸い終わって自分の制服に消臭スプレーをかけていた。
その様子を黙って見つめていた修司が口を開いた。
「そんなんで本当に臭い消えんの?」
そう言って修司は僕の手からスプレーのボトルを取り上げた。
「何もしないよりはいいと思うんだけど」
ボトルをしげしげと観察する修司からスプレーを取り替えそうとしたとき。
僕は思わずボトルのとってを握ってしまった。
「うわぁっ!」
ノズルから吹き出た霧は思い切り修司の顔へと命中した。
運悪くノズルの先が修司の顔に向いていたのだ。
「ご、ごめん!」
僕は慌てて謝った。
修司は僕をにらんだと思うと次の瞬間、すばやく僕の手からスプレーのボトルを取り上げた。
そして僕の顔面めがけてスプレーを吹きかけた。
「わあ!何するんだよ!」
僕は驚いて制服の袖で咄嗟にガードした。
「お返し」
修司はにっと笑ってなおも僕にノズルの先を向けてくる。
「わー!やめろ!」
僕はたまらずそのまま修司に背を向け逃げ出した。
そんな僕を修司は楽しそうに追いかける。
そうするうちに僕もなんだかおかしくなって、笑いながら修司から逃げ回った。
僕たちはその後しばらく小学生みたいに喚声を上げながら
夢中になって追いかけっこをしていた。



その日を境に僕たちはクラスでも話す機会が多くなった。
というより修司が僕に良く話しかけてくるようになったのだ。
修司が僕の名前を親しげに呼ぶ度に
僕の友達からは羨望と少しの軽蔑が当てられるのを感じていた。

「みーのーるー!」
修司はよくふざけて僕の背中に抱きついてくることがあった。
「わあ!」
修司のほうが背が高いので自然と後ろから覆いかぶされるような形になる。
前のめりになって身体を支える僕を気にすることもなく
修司はその体制のままさらに体重をかける。
「俺今日財布忘れちゃったんだよ〜。昼飯おごってくれ〜」
金を貸してくれ、じゃなくておごってくれというところが修司らしかった。
「ちょ、ちょっと、重いよっ!それに僕じゃなくて他の奴におごってもらえばいいだろ!」
僕がそう言うと修司はそんなこと言わないでくれよー、と
情けない声で言った後、耳元に口を寄せて囁いた。
「な、屋上で昼食べよーぜ」
僕は悪くないと思った。
「しょーがないなあ」
そう言うと修司はふざけた調子で僕のほっぺたにキスをした。
「ミノルー!愛してるぞ!」
クラスの端々から修司の友達が、お前らホモか!とからかう声が聞こえてきた。

僕はそのときなぜか、なぜかどきりとしたんだ。





秋の風が吹き始めた頃だった。
僕はいつものようにタバコが吸いたくなって屋上へと向かった。
鍵を回してドアを開けるとそこには修司がいた。
それ自体は珍しいことではない。
けれどその日修司はフェンスに持たれて居眠りをしていた。
僕はどうしようか迷ったあげくそのまま近くに行くと
起こさないように静かに隣に腰掛けた。
修司は僕より長くしなやかな足を放り出して気持ちよさそうに寝息を立てている。
僕はタバコを吸いながら彼の寝顔を観察した。
染めすぎて痛んだ髪。
耳に連なる銀色のピアス。
女の子にもてるだけあってその顔は整っていた。
見つめているうちに僕の中にはわけの分からない衝動が生まれた。

僕はタバコを揉み消した。
そしてそっと修司の唇に自分の唇をあわせた。
それは触れるだけのキス。
けれど僕には修司の柔らかい唇の感触がとてもリアルに感じられた。

顔を離して目の前の修司の顔を再び見つめた途端、
僕は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。
なんてことをしてしまったんだろう。

僕はいても立ってもいられなくなってその場を逃げるように後にした。
 
 
 
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