雪消の調べ




激しくも切ない旋律。
誰にでも聞き覚えがありそうなその音色。
この曲は、なんという題名だっただろう。

それが、始まりだった。








雪も解け始める、春。
花はちらほらとほころび、若葉も控えめに芽吹き始める。
けれどこの町の風はまだ少し冷たく、上着は手放せない。
早朝、瑞貴は陽射を心地よく感じながら学校へと続く坂道を登っていた。
夏の季節はこの登ると汗だくになる坂道が嫌でたまらなかったが、
冬から今の季節にかけては身体が温まって丁度良い。
瑞貴は坂道を登りきったところで息をつくと、改めて下を見下ろした。
まだ登校してくる生徒は一人も見えない。

瑞貴は早朝の学校が大好きだった。特に、天候の良い日。
誰もいない教室。しんと静まりかえる廊下。
夜ならば怖いであろうその雰囲気は、朝の陽だまりによって救われている。
けれどやはり、その陽だまりのなかにはなんとなく不気味さを含んだ空気が流れている。
その、どこか仄暗いにおいが、瑞貴の心を惹き付けるのだった。
廊下には自分の足音だけが響く。
階段を登り、踊り場まで来たところで瑞貴はふと足を止めた。
微かなピアノの音色が耳をくすぐった気がした。
瑞貴は呼吸を止めて耳を済ませた。
すると確かに、どこかから、その音色は流れてきている。
再び足を進め、階段を登る。音は近くなる。
自分以外に、こんな早朝に、登校している生徒がいる。
意外に感じながら階段を上り終えたところで瑞貴は再び耳を済ませた。
それは聞き覚えのあるクラシックだった。
静かな校舎の中、その音だけが小さく激しく響き渡る。
瑞貴はその場に立ち止まり、奏でられる音色に耳を傾けながら、なぜか鳥肌を立てていた。
瑞貴は上へと続く階段を見上げた。
音楽の授業を取っていないので覗いたことは一度もないが、音楽室が三階にあることは知っている。
そのまま少し考えたが、瑞貴はやはりいつも通り、自分の教室へと足を向けた。







瑞貴はぼんやりと頬杖をついて窓の外を眺めた。
教室にはもう何人か登校してきた生徒たちが、テレビや、服や、彼女の話に花を咲かせていた。
高校二年生になったばかり。
瑞貴にはどこか人見知りをする節があり、この新しいクラスでもまだ友達が出来ないでいた。
瑞貴は不思議に思う。
なぜ他の生徒たちはあんなにも早く、お互い打ち解けられるのだろうと。
初めて会う人の前に出ると、瑞貴の口からは滑らかに言葉が出てこなくなってしまう。
そんな性格と、男子校ということも相俟って、瑞貴には彼女と呼べる存在がいなかった。
興味がないわけではなかったが、機会がないのと、小柄な自分になんとなく自信が持てないでいた。
それというのも以前一度、名も知らぬ男に付き合ってくれと言われた挙句、半ば強引に口付けを要求され、
瑞貴は驚いたのと同時にひどく傷ついたことがあった。
やはり自分はそういった対象になるような外見なのかと。

いつの間にか教室は生徒で埋まり、賑やかな笑い声が時折混じる。
瑞貴はクラスの喧騒から逃げるようにして頭の中で今朝のクラシックを反芻した。
耳につくこの音色。
瑞貴は帰りにどこかへ寄ってこの曲が入ったCDでも探してみようと、ひそかに思った。








翌朝、瑞貴はいつものように朝早く登校した。
自分の足音を聞きながら廊下を進んでいると、その耳にふと、他の音が混じった。
昨日と同じ音色だった。
瑞貴はどきりとした。
昨日、CDを探してみたものの結局見つからなかった。
曲名が分からないのだから、あたりまえだった。
かといって店員の前で口ずさんだりするのは恥ずかしい。
どうしてもほしいというわけでもなかったので瑞貴はそのまま諦めて店を後にしたのだった。
そのことを忘れかけていた今朝、その曲を再び耳にして、
瑞貴の中にはもっと聞きたい、題名を知りたいという思いがわきあがってきた。
二階まで登りきったところで、瑞貴は一瞬躊躇したが、どきどきとしながら三階への階段を踏み出した。
音が近くなるにつれて、身体の中から鳥肌が広がる。
音楽室の扉が半分開いているのが見える。
そこから音が大きく漏れていた。
瑞貴は緊張しながら中を覗いた。

音楽室は意外と広々していて、中にはわずか5脚ほどの椅子しかない。
その椅子の向かい、窓辺にそって大きなグランドピアノが置かれていた。
そのピアノを、制服のブレザーを脱ぎ、腕まくりをした少年が身体を微かに揺らしながら奏でていた。
瑞貴はその姿に息を呑んだ。

少年の長く綺麗な指が狂気のように鍵盤の上を動き、激しく切ない旋律を奏でている。
すらりと長く伸びた手足はいかにも絵になり、色素の薄い髪がかかる横顔は伏せ目がちに指を追っていた。
瑞貴は体中にぞくりとその旋律を感じ、扉の前から動けなくなってしまった。
こんなに速く動く人間の指など見たことがなかった。
瑞貴は全身でその音を感じ、ただひたすら感動していた。
曲のクライマックスが終わり、最後の一音が余韻をひくまで、瑞貴は微動だにせずその音色に聞き入っていた。

曲を弾き終えた少年が顔を上げ、ドアのほうに向いた。
瑞貴は少年と目が合い、始めてはっとした。
「あ・・・あ、あの・・・」
なにか言わなければ、そう思ったもののことばが出てこない。
こんな自分がもどかしかった。
うろたえる瑞貴を見て、少年はくすりと笑った。
「おはよう」
そう微笑んだ笑顔は美しく、
瑞貴は自分の顔が熱くなるのを感じた。
「あ・・・ええと・・お、おはよう・・・ございます・・」
どこか大人っぽく感じられるその少年の雰囲気に、瑞貴は思わず敬語で挨拶をした。
「・・・俺の演奏、ずっと聞いていたの?」
静かにそう問われ、瑞貴は焦った。
「あ・・ご、ごめんなさい、俺、勝手に・・・」
「ああ、別に謝らなくてもいいよ。ただ、随分朝早くに来てるんだなと思って」
「そ、そうですか・・」
硬くなって答える瑞貴に、少年はもう一度くすりと微笑した。
「敬語はいいよ」
「え、は、はい、あっ、・・・うん」
瑞貴がそう答えると、少年はさもおかしそうに笑った。
「君、おもしろいね。名前はなんていうの?」
「野田・・瑞貴・・・」
「そう、俺は貴島怜次。よろしくね」
「う、うん。よろしく・・」
怜次はポーン、ポーン、と鍵盤を人差し指でたたきながら瑞貴に聞いた。
「いつも朝早く学校に来るの?」
「うん・・。あの、貴島君も・・・?」
「・・・俺は、つい最近だよ」
そこで会話が途切れ、ピアノの単音だけが音楽室に響いた。
何も言わぬ怜次に瑞貴は気まずさを感じた。
なにか、言わなくては。
焦れば焦るほどことばが見つからない。
そんな瑞貴をよそに、怜次は知らぬ顔で鍵盤をたたき続けている。
「あっ、そうだ・・・あのさ、あの曲・・なんて、いうの?」
怜次が鍵盤をたたく手を止めて瑞貴を見た。
「・・・あの曲?」
「あ、あのさっき貴島君が弾いてた曲・・・」
「ああ・・あれは、ラ・カンパネラ」
「ラ・・・カンパネラ?」
「そう。パガニーニの練習曲」
「ふうん・・・あの、凄いね。あんなの弾けるなんて・・」
怜次はピアノに視線を戻し、微笑を浮かべただけだった。
そのどこか寂しそうな微笑に、瑞貴はどきりとした。
けれど次の瞬間、チャイムがなり、はっと我に返った。
チャイムが鳴り終わると怜次はまた片手で簡単な音色をかなで始めている。
「あ・・・じゃ、俺、行くね・・・」
瑞貴がそう言うと、怜次は指を鍵盤に置いたまま言った。
「ああ、またね」
「う、うん」
瑞貴はぎこちなく頷くと、逃げるようにして音楽室を離れた。
心臓に手を当てると、いつもより速く、どきどきと脈打っていた。




ラ・カンパネラ


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