2 瑞貴は芝生の上に寝転び空を仰いだ。 青空がまぶしくて目を閉じると、瞼の裏には今朝の少年、怜次がピアノを弾く姿が映る。 それは一枚の絵のようで。 頭の中には自然と怜次が弾いていたラ・カンパネラが流れ出す。 今までクラシックなどには興味もなかった瑞貴だが、その美しい音色はいつまでも耳に残った。 そして瑞貴は怜次の綺麗な顔を思い浮かべた。 微笑みかけるその顔を思い出した途端、微かに早くなる鼓動。 そんな自分に戸惑いを覚えたときだった。 「昼も食わないでなにしてんの」 突然の声に瑞貴ははっとして目を開くと上半身を起こした。 声のした方を向くとそこにはどこか見覚えのある少年が立っていた。 戸惑いがちに視線を向ける瑞貴に、少年は眉を微かに上げると思いついたように言った。 「あ、もしかしてまだ俺の顔覚えてない?」 「え?」 「俺、同じクラスの高瀬。高瀬純一」 「あ・・・ご、ごめん。俺、覚えてなくて・・・」 瑞貴がどことなく申し訳ない気持になり慌てて小さく謝ると、純一はなんでもないように笑った。 「別に気にするなよ。俺だってクラスの何人かは顔と名前一致しないし。 まだ学年上がって一ヶ月もたってないもんな。」 それから純一は瑞貴の隣を指差して「隣座っていい?」と言うと芝生に腰を下ろした。 「いつも野田って昼休みになるとひとりでどっか行ってるからなにしてんのかと思ったら こんなところ来てたんだ」 「あ・・うん」 「教室んなかもうグループで来てるもんな。やっぱ居づらい?」 「うん・・まあ」 「ふうん・・・。いい場所だな、ここ。気に囲まれてて、他の生徒もあんまり居ないし」 「・・・うん」 「俺も実は今一緒に居るやつらとあんまり気があわないんだよね」 「へえ・・」 「・・・・」 するとふいに純一は目線をあわせるようにして背を丸め、瑞貴の顔を覗き込んだ。 彼の栗色に染められた少し癖のある毛先がふわりとゆれ、左耳に開いたピアスがちらりとのぞいた。 意外に整ったその顔を目の前に近づけられ、瑞貴はどきりとして思わず顔を引いた。 その体制のまま、純一が口を開いた。 「迷惑?」 「えっ?」 いきなりそう問われ、瑞貴が意図を図りかねていると、純一はすっと顔を離した。 「なんかやけにそっけないけど、俺ここにいたら迷惑?」 その言葉に瑞貴は慌てて首を振った。 「あ、ご、ごめん。迷惑とかじゃなくて、俺いつもそうなんだ・・。なんか人見知りするっていうか、初めて会ったひととかあんまりうまく話せなくて・・・」 瑞貴がそう言うと純一はほっとしたように微笑んだ。 「じゃあ俺ここで一緒に昼食べても良い?」 そんな純一に瑞貴は断ることもできずそのまま曖昧に頷いた。 ところが話してみると純一と瑞貴は意外と気が合った。 音楽の趣味やちょっとしたところの意見の一致。 それに加えて純一は話がうまかった。 普段なら人と打ち解けるのに時間がかかる瑞貴も昼休みが終わる頃にはすっかり純一に気を許していた。 「・・・良い天気だよな。午後の授業なんかなければいいのに」 そう言って純一は芝生の上にごろりと仰向けに寝転んだ。 その純一を横目に見て瑞貴はくすりと笑った。 すると純一がふいに瑞貴をじっと見詰めた。 「・・・瑞貴は彼女とかいないの?」 「え・・俺はいないけど・・」 瑞貴がそう答えると純一は微かに目を見開いた。 「ふうん。意外」 「そうかな・・・高瀬君こそいるんだろ?」 瑞貴がそう聞くと純一は再び空に視線を戻した。 「俺は別れたばっかりだよ。彼女に新しいクラスで好きな人が出来たって言われた」 「・・・ごめん、嫌なこと聞いて」 瑞貴はなんだか聞いてはいけないことを聞いてしまった気になり俯いた。 けれど純一は気にしていないという風に笑うと勢い良く身体を起こした。 「べつに。俺ももうそんなに好きじゃなかったんだ。それもいけなかったのかもな。 それより、俺のことは純一でいいよ」 「うん」 純一の言葉に瑞貴はほっとしながら頷いた。 「・・・それにしても二年になって一ヶ月もたってないのにふられるとは思ってなかったな」 その言葉に瑞貴は自分の手元を見詰めながら考えた。 「・・・でも・・・ひとを好きになるのって時間は関係ない気がする」 なんとなくそう思って瑞貴はぽつりとそう言った。 純一は驚いたようにその瑞貴の顔を見詰めた。 横からじっと見詰められる気配を感じ、瑞貴は居心地が悪く目を伏せた。 しばらくして純一は瑞貴から目線を外すと独り言のように呟いた。 「そっか・・。そうだな」 瑞貴がそっとその顔を見ると純一はにこりと微笑んだ。 「なあ、今日放課後どこか行かない?せっかく気も合いそうだし」 「え・・・」 突然の提案に瑞貴は戸惑った。 「部活とか入ってないんだろう?」 「そうだけど・・・」 「よし。だったら決まり」 そう言うと純一はその場に立ち上がった。 「もうそろそろ教室に戻ろうぜ。昼休みも終わるし」 早くも歩き出す純一の背中に、瑞貴は慌てて立ち上がりながら随分強引な人だと思った。 けれど不思議と不快ではなかった。 むしろその強引さが人見知りをする瑞貴にはありがたかったのかもしれなかった。 放課後。 約束通りどこかへ行こうと瑞貴は純一と教室を出た。 そして一階へと続く階段を下っているときだった。 帰る生徒や部活へ向かう生徒たちの声に紛れ、微かな音が瑞貴の耳に届いた。 まさかと思い瑞貴は足を止めた。 階段の途中で立ち止まる瑞貴に純一は怪訝そうな顔した。 「どうかした?」 けれどその言葉は瑞貴の耳へと届いていなかった。 瑞貴は「ごめん」というと向きを変え、もときた階段を駆け上っていった。 純一はその背中を呆然と見詰めていた。 最初は幻聴かと思った。 けれど階段を登るほどに近くなる音に瑞貴の心臓はどきどきと脈打った。 それは間違いなく、怜次の弾くラ・カンパネラだった。 廊下を進み、音楽室の前まで来ると瑞貴は中を覗いた。 朝とは違う、淡い橙色の西日が差し込む音楽室。 その逆光の中で怜次のシルエットが旋律を奏でていた。 瑞貴はぼんやりとその姿をみつめ、音に聞き入った。 するとふと音が途切れ、瑞貴は我に返った。 「やあ」 怜次がこちらを向き、微笑んでいた。 「そこの扉、閉めてくれる?」 瑞貴はどこか緊張しながらも教室の中に入るといわれたとおり扉をしめた。 途端、生徒たちの喧騒が遠くなり音楽室のなかにふたりきりだということを余計に感じた。 「やっぱり放課後は生徒たちの声がうるさいね」 「あ・・貴島君、放課後も練習してるの?」 「今日は吹奏楽部の練習が休みだから特別だよ。いつもはここは吹奏楽部が使っているんだ」 そう言いながら怜次は曲の続きを弾きだした。 音楽室いっぱいにグランドピアノの音が響く。 瑞貴はとりあえずピアノの正面に置かれている椅子へと腰掛けた。 怜次はすでにピアノを弾くことに没頭している。 ピアノの屋根の隙間に覗く、夕日に照らされるその怜次の顔を、瑞貴は正面から魅入られたように見詰めた。 曲を弾き終わり、怜次が顔を上げた。 その瞬間目が合い、瑞貴はどきりとした。 「野田君はピアノ弾く?」と怜次が聞いた。 瑞貴は首を横に振った。 「ううん・・でも、俺もピアノとか弾けたらいいのにな」 怜次はくすりと笑った。 「弾いてみる?」 「えっ?」 「こっちにおいでよ」 そう言われ、瑞貴はどきどきとしながら立ち上がった。 そばに行くと怜次は立ち上がり、瑞貴をピアノの前の椅子に座るように促した。 瑞貴は緊張しながら椅子に腰掛けると、とりあえず両手を鍵盤の上に置く。 すると怜次が瑞貴の後ろから手を伸ばし、すぐ横の鍵盤に手を置いた。 「こんなふうに、手の形を保つんだ」 耳元のすぐ後ろからそう囁かれ、瑞貴はぞくりと背を奮わせた。 密着するような体制に心臓が早鐘のように鳴る。 「こ・・こう?」 それでもぎこちなく手の形をまねてみると、後ろの怜次がくすりと笑う気配がした。 「もう少し、こんな感じで」 怜次はそう言うとさらに身を乗り出し瑞貴の手に触れた。 瑞貴はびくりとした。顔がいっきに熱くなる。 怜次はそんな瑞貴に気付いているのかいないのか表情を変えないまま指導を続けた。 こんなふう手を触れられて顔を赤くしているなんて気付かれたくない。 瑞貴は気が気ではなかった。 居心地が悪い。 居心地が悪いはずなのに、瑞貴は耳元で響く怜次の声を心地よく感じていた。 結局その日、二人は暗くなるまで音楽室にいた。 |
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