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何もかもが初めてだった。

いつもはピアノを叩く指が瑞貴をなぞる。
いつもは音を奏でる指が瑞貴を奏でる。
瑞貴は戸惑いながらも夢中で怜次の与える快楽を追った。
口から自然と漏れる溜息や喘ぎは止めようが無く、けれどそれもまた瑞貴自身を煽る。

「・・ぁ・っ、れ、いじ・・・っ」
激しい痛みに気が遠くなりそうになりながらも怜次の名を呼べば、
瑞貴の手のひらに重ねられた怜次の手がそれに答え強く握られる。
「瑞貴・・・」
口元で熱い吐息とともに名を囁かれそのまま唇を塞がれる。
それだけで痛みは甘いものに変わり、閉じられた瞼のふちには涙が滲む。
その目元も、頬も、肌蹴られた滑らかな肌も、全てが上気し桜色に染まり、怜次を誘う。

意識が霞む中うっすらと目を開ければ見たことのない顔の怜次が目に入る。
けれどそう言う顔をさせているのは自分だというのに気付く間もないほどに瑞貴は快感に溺れていて。
またその様子が怜次を高みへと導く。
そうして怜次が昇り詰めるのを感じたとと同時に、瑞貴も自らを解放した。




















早朝の音楽室。ラ・カンパネラが響く。
目の前の怜次は身体を微かに揺らしながら俯きがちにピアノを弾いている。
その指の動きは狂気と言ってもいいほどで、何時見ても瑞貴は感嘆するのだった。

もう何度目だろう。怜次の弾くラ・カンパネラを聞くのは。
瑞貴と付き合いだしてから、日を追うごとに怜次がラ・カンパネラを弾く回数は多くなっていた。
瑞貴がラ・カンパネラを弾く怜次が一番好きだと言ったからかも知れない。
けれど実のところ、瑞貴はラ・カンパネラを弾く怜次が好きなのと同時に、
ラ・カンパネラを弾く怜次を見るとピアノに嫉妬を覚える。
周りの何ものも目に入らず、一心にピアノを弾く怜次は美しいと思うものの、
その瞬間自分は怜次の心から消えているのだろうと思うと少し淋しい思いがするのだ。
いつだって自分のことを考えていてほしい。
いつからこんなふうに自分は欲張りになったのだろう。
そう考えて瑞貴が自分自身を微かに恥じ入ると、ふと演奏が途切れた。

顔を上げると怜次と目があう。
瑞貴と怜次は微笑み合った。
「今日も少しノクターン練習してみる?」
「うん・・あとちょっとで全部弾けるようになるし・・」
瑞貴がそう言うと、怜次は心なしかどこか寂しそうな笑みを浮かべた。
「じゃあ、その前にもう一曲」
そう言って再び鍵盤に目を落とす怜次を不思議に思ったが、
次の瞬間流れてきた音色に瑞貴はどこかどきりとした。

「・・・なんか・・・嫌だな、この曲」
怜次はピアノを引き続けながら答える。
「・・・なんで?」
「・・・だ、だって、縁起悪いよ。俺たち・・あの、付き合ってるんだよね?」
怜次は視線を落としたまま微笑んだ。
「瑞貴がそんなふうに言ってくれるの、うれしいな」
その言葉に瑞貴は思わず頬を染めた。
「・・・瑞貴、この曲名、知っているんだ?」
「・・・うん。前に聞いたピアノのクラシック全集に入ってたよ。別れの曲だよね?」
すると演奏する手を止め、怜次が顔を上げた。
「・・・言わなきゃいけないことがあるんだ」
その真剣なまなざしに瑞貴はぎくりとし、座っていた椅子から腰を浮かした。
「な・・・に・・?」
怜次は立ち上がり瑞貴に近づいた。
そしてそのまま瑞貴を抱きしめると耳元で囁いた。
「俺、ウィーンへもう一度戻ろうと思うんだ」
「・・・え・・・?」
「留学、半年で帰ってきちゃったって言っただろう?残りの半年、もう一度向こうへ戻ろうと思うんだ」
瑞貴は目の前が真っ白になった気がした。
「う・・・そ・・」
怜次が瑞貴を抱く手に力を込める。
けれど瑞貴はその怜次の胸に思い切り手をつっぱると身体を離した。
「なにそれ・・・っ、なんで・・・!」
自然と目に涙が溜まるのを瑞貴は抑えられなかった。
「瑞貴・・・」
怜次は静かに瑞貴の名を呼びながら胸に置かれた手を握りそっと外した。
「何故俺がもう一度ウィーンへ戻ろうと思ったか分かる?」
瑞貴は俯き首を横に振った。
こぼれる寸前だった目元の涙がぱらぱらと散る。
「・・・瑞貴の一生懸命弾くノクターンを聴いてからなんだ」
瑞貴が思わず顔を上げて怜次を見詰めると、怜次は瑞貴の目じりに残る雫に唇を落とし微笑んだ。
「・・・俺、母さんが死んでから何のためにピアノを弾いているのか分からなくなったっていっただろう?
でも、瑞貴のピアノを聴いて思い出したんだ。ピアノを始めた頃の夢中な気持を。
毎日毎日うまくなりたくて、ピアノの前に座るのが楽しみで。少しでも弾けるようになると物凄くうれしかった。
瑞貴の姿を見て、その頃を思い出した。
結局俺はピアノが好きなんだ。だから今もこうして止めないでいるんだ。それでいいんじゃないかって思ったよ。
これからは自分と・・瑞貴のために、ピアノを弾きたいなと思ったんだ」
そう言って怜次は瑞貴の頬に手を添えたが、瑞貴は顔を伏せた。
「でも・・・ウィーンなんて・・・遠いよ・・・」
怜次は顔を伏せた瑞貴の旋毛に口付けを落とすと再びその身体を抱き寄せた。
「半年。半年したら帰ってくる。だから待っていてほしい」
瑞貴は首を縦に振れなかった。
大人しく頷こうと思っている自分もいるのだ。
怜次の決意を喜ぶべきだと。
けれどあくまでも冷静な怜次の声と、怜次と離れなければならないという事実は
瑞貴を珍しく意地悪な気分にさせる。
「なんで、ウィーンなの。なんで戻らなきゃいけないの。日本でもピアノは弾けるじゃないか」
肩口に頬を押し付けたままそう囁くと、怜次がなだめるようにその髪を梳いた。
「・・・向こうでとてもいい先生に会ったんだ。それに、向こうのコンクールに出たい。
そのために俺はずっとラ・カンパネラを練習していたんだよ」
「・・・俺が浮気するとか、そういうの、考えないの」
それは、瑞貴の不安でもあった。
怜次が向こうで誰かみつけてしまったらどうしよう。
そんな瑞貴の肩に手を置くと、怜次はその身体をそっと離し瑞貴の眼を真っ直ぐ見詰めて言った。
「俺はしないよ。俺は浮気なんかしない。瑞貴もしないと信じてる」
瑞貴は、思わず泣き出してしまった。
「泣かないで・・・瑞貴・・・」
怜次は涙が伝う瑞貴の頬を包みながらそっとぬぐった。
その優しい仕草に涙は余計に溢れる。
「っ・・・ごめ・・ごめん、怜次・・・。おめでとうとか、がんばってとか・・・・っ、言いたいんだ・・」
「大丈夫・・・大丈夫だよ」
その言葉とともに抱きしめられ、瑞貴は息を深く吸うと自分を落ち着けた。
「怜次・・・俺、待ってる・・」
「ありがとう・・・」
怜次はその腕に一層力を込め、瑞貴もその背中に腕を回し力を込めた。










「・・・俺なら絶対離れたりしないのにな」
立った今飛行機が飛び立った空から視線を瑞貴に戻し、純一は言った。
空港には飛び立つ飛行機や着地する飛行機が空気を裂き音を立てる。
瑞貴はフェンスに手を掛けたまま横の純一を見るとただ微笑んだ。
今日から約半年、怜次は日本を離れる。
けれど瑞貴は不思議と穏やかな気持だった。

「俺に乗り換える気、全然ない?」
純一はフェンスに捕まり背を逸らしながらいたずらっぽく瑞貴を覗き込んだ。
瑞貴はふふ、と笑って言った。
「ごめんね。俺、怜次が好きなんだ」

「・・・不安じゃないの」
言いながら純一はもう一度空を見た。
「・・・不安じゃないって言ったら嘘になるよ・・でも」
瑞貴も怜次の乗った飛行機が飛立った方を仰ぎ見た。
太陽の眩しさに目を細める。

「俺、怜次を信じてるんだ」
そう言った瑞貴の顔は爽やかに微笑んでいた。













Fin(8/3/2005)


 <小説目次
 

完結しました!反省点はたくさんですが、好きなお話が書けてよかったです。読みきりか続編かは分かりませんが、いつか瑞貴と怜次の再会偏なんかも書きたいと思ってます。ここまで読んでくださりありがとうございます!!ご感想など送っていただけるとうれしいです!


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