桜雨の庭
 
 
 
 
足取りは重かった。
月曜日、学校へ行くのがひどく憂鬱だった。
涼しい風が頬をくすぐる。
道路沿いに植えられた木々は葉を落とし始めていた。
週の始めとはなぜこんなにも気分が重いものなのか。
とくに学校が嫌なわけでもなんでもない。
行ってしまえば友達に囲まれ憂鬱など吹き飛ぶのは分かっている。
けれどどういうわけかその学校へ行きたくない。


その日、ぼくはどうにも学校に行く気になれず
いつもは曲がらない角を曲がった。
細い路地のようなところへ入り、そのままぶらぶらと歩く。
家の木々や小さな神社。
知らない道をいくつも曲がる。

乾いた秋の景色の中、ふと視界の端を華やかな色が掠めた気がした。
ぼくは立ち止まり、目を凝らし、その色を探した。
見つけたと思った途端、ぼくは自分の目を疑った。
満開の桜だった。
咲き誇った薄桃色の花。その花の木の天辺が家々の屋根間からのぞいていた。
夢を見ているのかもしれない。
思わず目をこすってみたけれど、その奇妙な光景は変わらずぼくの目に映っていた。
ぼくは吸い寄せられるようにしてその桜が見えるほうへと歩いた。


近くへ行くと、それは古びた日本家屋だった。
入り口に構えられた小さな門は朽ちかけてくすんでいる。
その門の上に敷かれた瓦の向こうに、桜の花がちらりと顔をのぞかせている。
本当に桜が咲いているのだろうか。
ぼくはこの戸を開け、桜にさわり、それが自分の見間違いではないことを確かめてみたくなった。
門の様子からして、ぼくは誰も住んでいないだろうと思い、そっと木戸を押した。
内側から鍵がかかっているかもしれないと思ったが、その心配もなく、
扉はギイ、と古めかしい音を立てた。
なんだかぼくは小学生が探検ごっこをするみたいにどきどきした。
そして、その扉が開いた瞬間、ぼくは息を呑んだ。
扉の向こうに現れたその庭の、ちょうど中央だった。
桜の大木が植わっていた。見事なまでに満開な八重桜だった。
ぼくはそのままそっと庭に足を踏み入れた。
扉から手を離し数歩歩いたところで、後ろの木戸が重みで自然に閉まる音がしてぼくはびくりと振り返った。
それからそんな音に驚いた自分に苦笑した。

やはりなかには人気がなく、くすんだ木の塀がぐるりを囲い、
それに沿うよううにしてL字型の日本家屋が建てられている。
咲き誇る桜以外に華やかなものはひとつもなく、その家は朽ち果て、誰も住んでいないように見えた。
けれどかえってその朽ちた家やくすんだ塀の様子が、なんともいえない雰囲気をかもし出していた。

「何か用?」
突然声が聞こえ、誰もいないと思っていたぼくはその声に心臓が止まるほど驚いた。
そのままぼくが立ちすくんでいると、桜の木の陰から少年が現れた。
ぼくは一瞬、その少年に見蕩れた。
白い長袖のシャツに黒いズボンという出立ちのその少年は、目も眩むほどに美しかったのだ。
少年の黒髪がサラサラと風になびく。桜の花も微かにそよいだ。
どこか冷たく感じられるその美貌に見詰められ、ぼくは射すくめられたように動けなくなった。
少年は黙ったままゆっくりとぼくに近づいた。
近くで見ると少年はぼくより少し背が高い。
ぼくは上目遣いに少年を見詰めた。

「君はだれ?」
少年はそう言ってそっと手を伸ばすとぼくの頬に触れた。
ひんやりとした感触。ぼくは背筋に悪寒が走るのを感じた。
「ぼく・・は・・・充哉」
ぼくは頬に置かれた手を払いのけることもできず、自然とそう答えていた。

「・・・そう。充哉」
少年は囁くようにぼくの名前を繰り返すと、今度ははっきりとした声で言った。
「ここから出て行って」
「・・・え?」
一瞬なにを言われたのか分からなかった。
少年はぼくの頬から手を下ろすと背を向けた。
「出て行けって言ったんだよ」

静かだけれど力のある声だった。
ぼくはそのまま後ずさり自分の背で木戸を押して外に出た。
立ち尽くすぼくの目の前で、門が重みでゆっくりと閉まっていく。
ぼくはそれを呆然と見詰めていた。
その戸が完全に閉まる直前、その少年がちらりとこちらを振り返った。
ぼくは、その視線にぞくりとした。
扉が閉まってからも、ぼくはしばらくその場を動くことが出来なかった。


ぼくはそっと自分の頬に触れてみた。
少年がそうしたように。





翌朝ぼくは昨日と同じ角を曲がった。

昨日、ぼくは一日中そのことを考えていた。
朝見た光景が目に焼きついて離れない。
秋に咲く薄桃色の桜。
なぜあの少年は名前を聞いておきながら出て行けと言ったのか。
なんだかそれはぼくを誘っているように思えた。

不思議と道は覚えていた。
くすんだ門の前に立つ。
そしてぼくは扉を押した。

満開の桜。
その右手。朽ちかけた縁側に少年が腰掛けていた。
昨日と同じ、真っ白なシャツに黒いズボン。
少年はゆっくりとこちらを向いた。
「また来たね」
少年が無表情にそう言ったので、ぼくは急に不安になった。
また出て行けと言われるかも知れない。
「あの・・・」
ぼくが言葉に困っていると少年は微笑んだ。
「こっちにおいで」
ぼくはその言葉に誘われるように足を進めた。
なぜだかひどく緊張した。
ぼくがそのまま少年の近くに突っ立ったままでいると、少年はくすりと笑った。
「座れば」
「あ、・・・・・・うん」
ぼくがぎこちなく隣に掛けると、少年は目の前の桜の木を仰いで言った。
「桜、綺麗だろう」
「・・・うん」
ぼくもそう頷いて桜を見詰めた。
その瞬間、強く風が吹いた。桜の枝がしなり、花が揺れた。

ぼくはそのときあることに気付いた。
風にそよぐ桜。その花はこぼれんばかりの満開なのに、
花びらは、ひとひらも、舞っていない。
ただの、ひとひらも。
桜が枝を広げる木の下にも乾いた土が広がるだけ。
ぼくはなにか重大な秘密を知ってしまったときのように息を潜めた。
そのままそっと隣の少年を盗み見るとその真っ直ぐな視線とぶつかった。
ぼくはぎくりとした。
いつからぼくのことを見詰めていたのだろう。
少年は微笑んだ。
「・・・不思議?こんな時期に桜が咲いているって」
その笑みが艶っぽく見えるのはぼくの気のせいだろうか。

少年はゆっくりとぼくの頬に手をかけた。
身体が震えた。
ぼくは自分の心臓が、とん、と跳ねるのを聞いた。

少年がくすりと笑った。
「そんなに硬くならないで、充哉」
そう言われて余計、自分の顔が熱くなる。
「ぁ・・・・ぼく、学校に行かないと・・・」
ぼくはあわてて立ち上がるとそのまま少年に背を向け門に向かって歩いた。
扉に手をかけたとき、少年がぼくの名を呼んだ。
「充哉」
ぼくはどきりとして立ち止まった。

「ぼくの名前は晋だよ。・・・明日も、来てくれるとうれしい」
ぼく思わず勢い良く振り向いた。
少年は微笑んでいた。




 
 
 
 
 
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