あくる日もぼくはそこへ向かった。
桜の謎に、晋と名乗る少年の謎に、ぼくは強く惹きつけられた。
細い路地を歩きながら、ぼくは「晋」という、覚えたての名前を、心の中で繰り返し呟いていた


その日も扉の向こうには、同じように、咲き誇る桜と、その桜以上に美しい少年、晋がいた。
「おはよう」
晋は微笑を浮かべる。
「・・・おはよう」
ぼくは晋の隣の縁側に腰掛けた。
どこか緊張の隠せないぼくを、晋は微笑んだまま見詰めた。

聞きたいことがたくさんあったはずなのに。
なぜだかわからない。
なぜだかわからないけれど、その微笑みに見詰められてぼくはなにも聞けなくなってしまった。

ぼくは晋の視線から逃れるようにして立ち上がった。
涼しい風が吹いた。桜が揺れる。ぼくは少し寒さを感じて身震いした。
「寒いの?」
後ろから晋の声が聞こえた。
「あ・・・うん。もうこんな薄いワイシャツ一枚じゃ寒くなる季節かな・・・」
そう言って振り向こうとした瞬間。
後ろからふわりと抱きしめられた。
「ちょっ・・・!」
顔がいっきに熱くなる。
ぼくは驚いてその腕の中から逃れようともがいた。
けれど晋の腕の力は意外と強く、ぼくはその腕をはずせない。
「寒いんだろう?こうしていたら暖かいかもしれないよ」
心臓の鼓動が速くなる。
ぼくはこの鼓動が晋に伝わるのが怖くてなおも抵抗を続けた。
「だ、大丈夫だから、もう、寒くないから―、」
離して、と言おうとしたときだった。
晋が腕に力を込めて囁いた。
「友達になって。充哉」

その声が、今にも泣き出しそうなのは気のせいだろうか。
ぼくは抵抗するのを辞めた。
後ろから抱きしめられていたので、赤くなった顔を見られなくて良かったと思った。
晋の腕の中は、暖かかった。




それからぼくは毎日晋のもとへ通った。
天気の話をして、それから大抵ふたりで黙って桜を眺めた。
一緒にいる時間が長くなればなるほど、緊張は解かれ、不思議とぼくは晋の隣で安らいだ。
ふたりの間に言葉が流れることは少なかったけれど、沈黙は痛くなかった。

君は誰なの?学校は?両親は?この家に住んでいるの?
そして、この桜は?
そう聞きたかった。
何度聞こうとしたか分からない。けれどやはり聞けなかった。

ぼくは不安になる。
これはすべてぼくの夢で、ある日あの古びた家は、季節外れの桜は、晋は、
探しても見つからなくなってしまうのではないかと。
けれどそれらは行けば必ずそこにあった。
そしてぼくは安堵する。
いつの間にか、ぼくは晋と会うことを楽しみにしていたのだ。



ある日ぼくはいつものように晋と縁側に座り桜を眺めていた。
桜が一段と美しいように見えた。晋も、美しかった。
ぼくはぽつりと言った。
「なんだか、ここに来ると夢を見ているみたいだな」
言ってしまってからはっとした。
口に出したら本当にそうなってしまいそうで怖かった。
咄嗟に横の晋をみると、彼はやさしく微笑んでいた。
晋は縁側から腰を浮かせるとゆっくりと桜の木に近づいた。
そして幹に手をかけぼくに背を向けたまま言った。
「・・・充哉は、何も聞かないんだね・・・・」
どきりとした。
「気に、ならない?」
ぼくはごくりと唾を飲み込んだ。

晋はゆっくりと振り向き桜の木に背を預け、ぼくに手を差し出して言った。
「近くにおいで」
ぼくはどきどきしながら立ち上がり晋のそばへ寄った。
晋はぼくの両手を取ると、桜を見上げた。
「この桜、全然散らないだろう?」
ぼくも晋と向かい合ったまま、同じように桜を見上げた。

「ぼくはこの桜と一緒に、永遠を生きているんだ」
ぼくは桜から晋へと視線を移動した。
言っていることの意味が、分からなかった。
「それってどういう・・・・」
晋は桜を見上げたまま言った。
「ぼくはもう、何十年、いや、何百年生きているか分からない」

晋は、何を言っているのだろう。気でもちがっているのだろうか。
けれどこの秋に咲く、散ることのない桜が、晋のこの佇まいが、
ぼくに晋の言葉を否定させないでいた。
「家族も友達も、みんな、ずっと昔に死んだんだ。・・・ずっと、ひとりなんだ」
晋は桜を仰いだまま哀しそうな表情をした。
ぼくの胸は痛んだ。次の瞬間、ぼくはそうして晋に同情している自分に気付き、戸惑った。
そんなお伽話みたいなこと、信じるなんてどうかしてる。
ぼくも気がちがってしまったのだろうか。でも、目の前の晋を見ていたら、それでもいいと思った。
「晋・・・」
ぼくが呟くと晋はゆっくりと視線をぼくに当てた。
そしてにぎっている手に力を入れたかと思うと、急に体勢を入れ替え、ぼくを木の幹に押し付けた。
お互いの息遣いが聞こえるほど顔を寄せ、晋が囁く。
「充哉は、ぼくを開放してくれる?」
開放?どういう意味だろう。
ぼくが聞く暇もなく、晋の唇がぼくのそれを塞いだ。

頭が真っ白になった。

ぼくは気づくと晋を思い切り突き飛ばしていた。
はっとして晋を見ると、彼は傷ついたような表情をした。
ぼくはどうしていいか分からなくて、その場を走り去るしかなかった。



次の日、ぼくはそこへ行かなかった。その、次の日も。

考えれば考えるほど、それは非現実的なものに思えた。
ぼくが、晋を、解放する?なにから?
そうしたら、晋はどうなるの?
あれはきっとぼくがみた幻だったと考えてみても、心がそれを拒否してしまう。
ぼくはそれほどまでに、晋に会いたかった。



そしてぼくは結局古びた門の前に立っていた。
ゆっくりと、扉を押す。

晋はいた。
桜の木に肩を凭れ、腕をくみ、ぼくを見詰めていた。
後ろで扉のしまる音がした。
それがやけにぼくの耳に残った。

「もう来ないかと思った」
そう言った晋は今にも泣き出しそうだった。
晋がそんな表情をするとぼくは胸が締め付けられる思いがする。
ぼくはそっと晋のそばへ寄るとそのまま触れるだけのキスをした。
それは、無意識だった。
ぼくは自分の行動に驚いた。
それほど自然にぼくは晋に唇を重ねていた。そうしたいと思っていた。
考える前に身体が動いていた。
そんなぼくの行動に晋が目を見開く。
言葉が見つからなかった。ぼくが恥ずかしさから目を伏せると晋はそっとぼくを抱きしめた。
ぼくは心地良くて、腕の中で目を閉じた。
晋はそっと身体を離すとぼくのあごに手をかけ上を向かせた。

そしてそのまま口付けた。
ぼくは晋の舌が流れ込んでくるのをうっとりと受け止めていた。
ぼくたちは満開の桜の木の下、長い長い口付けを交わした。

晋は一旦唇を離すと今度は額に口付け、それからぼくのシャツのボタンに手をかけた。
ぼくが少し身じろぐと、晋は身体を離し、ぼくを見詰めて言った。

「ぼくは、充哉を最初にみたときからこうしたかった。充哉に惹かれてた。・・・でも、怖かったんだ」
なにが、怖かったのだろう。
ぼくは無言で晋を見詰めた。
晋もぼくを真っ直ぐ見詰める。
「ねえ、充哉は、ぼくのことを、好き?」
ぼくは頷いていた。頷いてから、ああ、そうかと思った。
ぼくは、晋が、好きだ。

それなのに晋はその瞳を不安げに揺らすと、小さく呟いた。
「充哉・・・充哉は信じる?ぼくがこの前言ったこと」
ぼくは困惑した。わからなかった。

「・・・わからない・・・。でも、ぼく・・・・」

目の前の晋が微笑んだ。この上なく美しい微笑だった。
けれどふと、晋がその目を伏せる。
「君は、ぼくを、この不老不死の身体から開放してくれるかもしれない。
でも、その後、ぼくはどうなるか分からないんだ。
それが、少し、怖い」
晋は伏せていた目を上げた。
「・・・でも、これ以上の孤独は、もっと、ずっと、怖いよ」
その瞳があまりにも切実だったので、ぼくは思わず晋をぎゅっと抱きしめた。
晋の口付けが再び落ちてくる。
ぼくは目を閉じた。



ぼくたちは、桜の木の下で身体を重ねた。
晋がぼくの身体のいたるところに口付けを降らせ、印を刻む。
その間も、ぼくはずっとずっと心の中で願った。
これがどうか、夢でありませんようにと。
ぼくは晋を身のうちに受けながら、うっすらと目を開いた。

そこでぼくは、見た。晋の肩越しに散る、桜の花を。

満開の桜がいっせいに、散っている。
まるで雨のように。
はらはらと、音もなく。薄桃色の雨が降る。
ぼくは眩暈を覚えた。

そして、意識を失った。
 
 
 
 
 
 
 
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