桜降る刻





「晋一」
そう呼ばれた少年は声の主を振り返った。
そこには少年がこの世で最も慈しむものが満面の笑みを浮かべ、桜の中に佇んでいた。
「充哉・・・」
少年もまた笑みを浮かべ、そのものの名を呼ぶ。
やっと、やっとめぐり合うことが出来た。
その歳月のなんと永かったことか。
少年は愛しいものへと手を伸ばす。
けれどその身体に触れようとした瞬間、それは桜の花びらとなり少年の前に散った。
少年はその場に立ち尽くすしかなかった。
ただ恋人であったはずの花びらをひとひら握り締め。

そこで晋一は目を覚ました。
しばらく色あせた木目の天井を見詰めた後、確かめるようにその手を頬へと這わす。
そこに涙の後がないことにほっとしたような、けれども虚しさを感じた。
永い時をこの朽ちた日本家屋でひとり過ごしてどれくらい立つだろう。
もう涙も涸れたのだろうか。
頭をめぐらせば破けた障子が目に入る。
そしてその隙間にはいまだこの世で最も愛しいものである充哉が愛した、
鮮やかなまでに咲き誇る桜が覘いているのだった。
















明治22年、4月。

世は今だ大日本帝国憲法の発布に騒がされていた。
苦笑するものやがっかりする声の多い中、晋一はほとんど関心がなかった。
ただ心の中にあるのはこれから会う恋人のことだけだった。
目の前には薄桃色の海が広がる。
土手いっぱいに植えられた桜の木々。
晋一はその林のなかに足を踏み入れると奥へと土手を下った。
下に流れる川の音が微かに近くなる。
桜林の土手と呼ばれるここで、晋一はいつも学校の帰りに恋人である充哉と待ち合わせるのだった。
土手の上の道は春になると桜を見るために散歩をする人々が行き交う。
けれど桜林の中は土手になっていて歩きにくく人々が入ってこないため
男同士の恋人が人目をしのび会うのには丁度良かった。
晋一は土手の少し下まで下ると足を止めた。
満開の桜の枝は風にしなり、さらさらとその花びらを散らす。
しばらくその様子を眺めていると晋一は後ろから名を呼ばれた。
「晋一」
振り返ると充哉がそこに微笑んでいた。
「今日は晋一がぼくより先だね」
そう言った充哉に晋一は無言で微笑み返した。
「桜の中に立ってる晋一って物凄く絵になってた」
少しはにかみながらそう言って下を向く充哉の頬に晋一は手を伸ばした。
充哉は頬を薄く染めながらも控えめに晋一を見詰めた。
晋一がゆっくりと顔を近づけると充哉はそっと目を閉じた。

数ヶ月前に心を通わせたこの恋人を、晋一は自分自身でも驚くほどに愛していた。
男同士ということは常に心に不安を残したが
晋一は充哉のためなら全てを投げ出せると思っていた。

長い口付けから開放してやると充哉はその頬を桜色に染めて眼を逸らした。
身体を重ねてもなおそんな初々しい姿を見せる充哉が愛しかった。
「桜、綺麗だね。充哉は桜が好きなんだろう?」
晋一は微笑ましい思いで桜を見上げてそう言った。
充哉は眼を逸らしたまま小さく囁いた。
「・・・うん・・でも、晋一のほうが綺麗だとぼく、思う・・」
晋一が微かに目を見開き充哉に視線を戻すと、充哉はさらに頬を染め続けた。
「それに、ぼくは桜も好きだけど、晋一のほうがずっと好きだよ」
晋一は微笑み、俯きがちの充哉を抱きしめた。
「ぼくも、桜より、なにより、充哉がこの世で一番好きだよ」
晋一がそう言うと充哉はその顔に満面の笑みを浮かべた。
そのまま感情が赴くまま充哉に口付けを落とす。
充哉の唇を味わいながら晋一は思った。
自分よりも、桜よりも、何よりも、綺麗なのは充哉だと。
少なくとも、晋一の目にはいつも充哉が一番綺麗に映った。
「ん・・・」
その充哉は口内に滑り込む晋一の舌に必死で答える。
自然と充哉の制服に伸びる手を、晋一は止めることが出来なかった。
充哉もまた、抵抗しなかった。
学生服の釦を上からゆっくりと外してゆく。
風がざわりと桜を揺らし、その制服の中に花びらを送り込む。
黒い学生服の下のシャツを肌蹴ると、晋一はそこに露になる充哉の首筋に口付けを落とす。
さらにその釦を外そうと晋一が手をかけ、口付けを深くしたとき、
パチリと枝の折れるような音が聞こえた。
晋一は咄嗟に充哉から身体を離したが遅かった。
音のした方を向くと、袴姿の女学生が驚いた顔のまま、そこで固まっていた。

晋一はその女学生に見覚えがあった。
以前晋一を慕って思いを伝えてきた女学生だった。
女学生は一歩後ろに後ずさると、そのまま一気に駆け出した。
晋一は動くことが出来なかった。
はっとして充哉に視線を戻すと、
充哉は青い顔でその瞳を揺らしながら晋一を見つめていた。
晋一はどうして良いか分からず目の前の充哉をきつく抱きしめた。
風が吹いた。
桜が舞っていた。






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