うっすらと目を開けると、辺りはもう明るかった。
目の前には敷きかけの布団が障子から注ぐ柔らかな日差しを受けている。
少しの間ぼんやりとその光景を見詰めていた犀は、
突然昨日の晩のことを思い出し、勢い良く身体を起こした。
急に起き上がった頭がくらりと揺れる。
犀は頭を片手で抑えながら部屋のなかを見回した。
やはり、宗二朗の姿はなかった。
思わず溜息が漏れた。

昨夜突然、思ってもいなかった事実を、思ってもいなかった形で押し付けられ、
考えているうちに寝てしまったらしい。
そもそもそれが事実かどうかすら犀には分からなかった。
けれど本当に、逸巳が自分の両親を殺したとしたら。
そう考えても犀にはどうしていいか分からない。
第一、なんのために?
そして、なぜ、宗二朗はそんなことを知っているのか。
再びぐるぐるとまわり始めたそれらのことを払うかのように、犀は頭を軽く左右にふった。
とにかく今は下に降りて準備をしよう。
そう思い布団を押入れに上げ、障子を開け廊下に出た犀は、その途端息を呑んだ。
障子を開けてすぐ右手。
廊下に恭が待ち伏せていた。






「宗二朗と、なにがあったの」
つかまれた腕が、きり、と痛んだ。
恭の眼はひどく真剣で鬼気迫るものがあり、犀は思わず視線をそらした。
その恭の話によると、今朝、朝一番に店に出た茜は、
脇の小さな座敷の上にずぶぬれで横たわる宗二朗を見つけた。
宗二朗は高い熱を出しており、今は茜が看病していると言う。
その話を聞いて犀はすぐさま宗二朗のもとへ向かおうとした。
けれど恭は犀の腕をつかみ、
昨日の晩、宗二朗となにがあったのか、そう、聞いたのだった。

犀は返答に困った。
自分のなかでも整理がついていないこと。

犀が眼を逸らしたままいつまでも黙っていると、恭がふと手の力を緩めた。
はっとしてその顔を見ると、先程までの険しい表情とはうってかわり、
恭は泣きそうな顔をしていた。

「僕・・僕、宗二朗が好きなんだ・・・」
恭は涙の混じる声でそう呟いた。
うすうす、感じていた。
けれど面と向かって言われても、犀はどうしていいか分からず、
恭の手を振り払うこともできないでただ突っ立っているしかなかった。
頭の中では昨日の晩、すきだ と言った宗二朗の、怖いほどに切なく真剣な声が反芻されていた。

「あ、あんたには、イツミ、とかいう客がいるじゃないか。僕、知ってるんだ。あいつが、お金で、
あんたに他の客をとらせないように茜さんに頼んでること・・。 ほ、ほんとだよ。 僕、このあいだ
見たんだ。 客が、あんたのこと指名してるのに、茜さん、必死で断ってた」

犀は眼を見開いた。
と同時に頭のなかがさらに混乱していく。

「きっと、そんな客ならいつか身請けだって・・。 あんただってあんな顔も良くて、金持ちに好かれて、
悪い気しないだろ。・・そんなふうに優しくしてくれるの、僕には宗二朗しかいないんだ・・なのに、
なのにあんたが来てから宗二朗、僕に冷たくて・・弥一だって、あんたの見方じゃないか、だから、だから・・」
眼からは涙がおち、廊下にぽつりと、しみをつくった。
けれど犀はそれどころではない。
なんで、なんで、そんなことを。
僕はお客さんが取れなくて不安だったのに。
そんなことばかりが頭をめぐる。

ふと気付くと、目の前の恭の、その犀よりすこし小さな身体が震えていた。
混乱する頭の中で、犀はそれでも恭に対する同情が生まれてゆくのを感じていた。

「お願い、宗二朗を、とらないで・・・・」

そう言った声は消え入りそうだった。
つかまれた腕からは小さな振動が伝わる。
それは犀の心をも、小さく、揺さぶるようだった。













犀は緊張で震えようとする手を気付かれないよう
慎重に酌をしながら、昼間のことを思い出していた。

茜は、犀が問い詰めると困ったような顔をし、それでも必死に頼み込むと、
諦めたように溜息をついてから本当のことを教えてくれた。

「最初は、あたしもびっくりしてね。そんなこと出来ませんよ、って言ったんだけど。
いくらでも金を積むもんだからねえ・・・・」
そして茜はばつの悪そうな顔をして続けた。
「逸巳の旦那が来ないとき、あんたが客取れなくて不安がってるのも分かってたんだけど・・
あんたには言わないって、約束だったからねえ。かわいそうだとは思ってたんだけど・・」
茜は「わるかったね」と、犀の頭に手を載せた。
なぜかわからなかったけれど涙が滲みそうだった。

犀は目の前の逸巳をちらりと見た。
現れるまであと二日、あると思っていた。
予定を知っていた茜も少し驚いた様子で慌てて犀の名を呼んだ。
宗二朗は、熱をだし、眠っており、犀が部屋へ入ったときも寝息を立てていた。

一度にいろいろなことが頭に押し寄せ、犀は、目の前の逸巳に何かを聞こうと思っているのだが、
一体何から、どんなふうに、聞いていいかわからなかった。
そんな犀の緊張を知ってかしらずか、逸巳はいつものように落ち着いた口調でぽつり、と話し始める。
「仕事が予定よりはやく片付いてね」
言いながらその美貌に、微かにうれしそうな表情が浮かべる。
犀は聞けなくなる。
そんな顔をされると、聞けなくなる。
こんなやわらかな表情をするひとに、自分の両親を殺したのでしょうか、などと、どうして、聞けようか。
それこそ、宗二朗が犀を逸巳から遠ざけようと、咄嗟についてしまった嘘だったのかもしれない。
犀は銚子を持ったまま俯いた。
逸巳がその頬に、そっと手を伸ばす。

「・・・犀に会えなくて寂しかったな・・・俺が来ない間、他の客をとったりしたのか?」

犀はその言葉に、ぴくりと身体をふるわせた。
―あなたが、ぼくに他の客をとらせないようにしてるんじゃないんですか。なぜ、知らないふりをするんですか。
犀はぎゅっと銚子を握る手に力を込めた。
その様子に気付いた逸巳は心配そうに表情を曇らせた。
「・・・犀?・・どうした?嫌な客にでもあたったか?」
そう言いながら逸巳は犀の手から銚子を外させ、その手をやわらかく包み込んだ。
犀は震える声を絞り出した。

「・・・な、なんで、そんなこと聞くんですか・・」
「・・・え?」
「・・ぼ、僕、聞いたんです。逸巳さん、僕が他のお客さんとれないように、お金、たくさん払ってるって・・・」
逸巳が眼を見開く気配がする。
「僕、不安で・・・い、逸巳さんがこないときとか、お客さん、僕だけとれなくて、追い出されるかもしれないって・・」
言いながら、じわりと、視界がぼやける。
手が、震える。
「な、なんでそんなこと・・い、いつ、逸巳さん、僕のこと、ほんとは、
す、好きなんじゃなくて、なにか、うらみとか・・」
情けないほど、声が震える。
犀は、怖かった。
今まで逸巳に期待していた分、裏切られたくないという思いが育っていた。
けれどだからこそ確かめられずにはいられない。
一瞬の沈黙の後、犀はふわりと抱きしめられるのを感じた。

「・・・ごめん」
頭の上からやさしくそう呟く声が聞こえる。
「良かれと思ってやったことなんだ・・・。犀が、嫌な客を採ることのないように・・
犀に、嫌な思いをさせたくなくて・・・いや、俺が、いやだったんだ。犀が、俺以外の客をとるのが」
犀は、腕の中から眼を見開き、逸巳を見詰めた。
「不安にさせるつもりはなかったんだ。 ・・・すまなかった」
「あ・・・」
抱きしめられたまま、髪を優しく撫でられ、犀は知らぬうちに涙をぽろぽろとこぼしていた。
「あ・・あ、ごめんなさ・・僕、・・うらみとか、そんなこと・・」
逸巳はふっと笑うと、目じりからあふれる涙をそっと、唇で吸い取った。
「・・言わなかった俺が悪かった。恩を着せるみたいで嫌だった。犀に気を使ってほしくなくて・・」

逸巳が優しく頬に口付けを落としながら「なあ、犀」と、言ったのと、同時だった。
「僕、・・」
ふたりで同時に口を開き、犀ははっと口をつぐんだ。
逸巳はやさしく笑いかけると、
「なんだい?」
と、犀に先を促した。
犀はなんとなく照れを感じ、俯きながらも口を開いた。
「・・僕、ともだちから、逸巳さんが、その、僕の両親を殺したって言われて、
そんなことまで疑っちゃってたんです。だから、なんだかいろいろ不安になっちゃって・・・でも」
そこまで言って、犀はぎくりとした。
逸巳の、犀を抱く腕が微かにこわばった気がした。
おそるおそる、逸巳の顔を見上げた。

その顔は、真っ青だった。

なによりも、それが、如実に事を語っていた。







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