瞼が重い。身体にも少しのけだるさが残る。
宗二朗はうっすらと覚醒する意識の中ゆるゆると目を開けた。
暗い中目に映った天井の木目が行燈に照らされ、ちらちらと橙色に揺れていた。
ぼんやりとした頭に、自分のしたことが思い出される。
と同時に、宗二朗は激しい後悔の念に襲われた。
 ―俺、なんてことを言っちゃったんだろう・・。
宗二朗は激情に任せ、いらぬことまでしゃべってしまった自分を悔いた。
そしてこんなことになってすら、犀の両親と逸巳に対する思いより、
好きだと告白した自分のことを、犀がどう思っているのかを気にしている自分を恥じた。
宗二朗はこの散らばった自分のこころと、そしてその散らばったこころが起こしたであろうこの状況をどう収拾をつけていいか分からなかった。
そうして現実から逃げるようにもう一度目を閉じようとしたとき、襖の開く音がした。
宗二朗ははっと目を開いた。
畳を擦る足音が近づく。
犀であったらどうしよう。咄嗟にそのことが頭に浮かんだ。
宗二朗が寝たふりを決め込もうとしたとき。
行燈の灯りに照らされ宗二朗を覗き込んだのは、茜の顔だった。
「目、やっと覚めたのかい」
茜は布団の中で目を開けている宗二朗をみつけると、ほっとしたように微笑んだ。
「茜さん・・・」
宗二朗は入ってきたのが犀出なかったことに胸をなでおろしながら布団の中に上半身を起こした。
その拍子に額に乗せてあった手ぬぐいが落ち、
初めて宗二朗は自分の額にそんなものが乗っていたことを知った。
濡れた手ぬぐいが目の前の布団にしみを作るのをぼんやりと眺めていると、茜が横から手のひらを額に当てた。
「もう、大分熱は下がったみたいだね」
「あの・・・俺・・・」
「今日の朝店先であんたを見つけたとき、あたしは飛び上がるほどおどろいちまったよ。昨日の夜、あんな雨の中なにしてたんだい」
そう問われて宗二朗は黙って俯いてしまった。
昨日の晩、宗二朗は犀と言い合いをした後、自己嫌悪に陥りながら寝る場所も行くあてもなく
ただただ考え事をしながら雨の中をさまよっていたのだった。
「・・・・今夜、犀は客をとってるよ」
その茜のことばに、宗二朗は勢い良く顔を上げた。
「客って・・・」
「もちろん、いつもの客。逸巳って若い旦那だよ」
宗二朗は途端に青ざめた。
「そんな・・・一週間は来ないって・・」
そう呟いた途端、茜の顔が険しくなった。
「なんであんたがそんなこと知ってんだい」
「っ、それは・・・・あの、・・あ、犀、犀から・・・」
言いながら宗二朗は口ごもってしまった。
「宗二朗。昨日の晩、犀と何があった」
茜の強い口調に、宗二朗は目を泳がせた。
「あの客と、犀は、なにかあるのかい」
その指摘にびくりと反応した宗二朗の肩を、茜は見逃さなかった。
「あんた、何か知ってるのかい」
宗二朗は迷っていた。
ここで茜に全てを打ち明けるべきか、そうしないべきか。
二人の間に沈黙が流れる。
茜が溜息をついた。
そして静かに口を開いた。
「おとっつあんには言ってないけど、あたしはあんたが男娼としての仕事をしてないのを知ってるよ」
茜の口から流れ出たことばに、宗二朗は息を呑み、目を見開いた。
「・・・あんたの前の客、寡黙そうに見えて酒が入るとおしゃべりになるみたいでね。
言ってたよ、俺は男なんか趣味じゃないって。抱いたこともないって。金もらってるから仕方なくここに来て、
愛想のないガキの横で眠るんだって」
宗二朗は青い顔で茜を見詰めた。
「その客、こうも言ってたよ。
犀は、蝶だって。片桐という名の巣にかかった、蝶。
・・・ねえ、片桐って、犀の客、逸巳さんの姓だろう。」
宗二朗は目を伏せた。
茜は布団の上に置かれた宗二朗の手に自分の手を重ねると、
覗き込むようにしてその真剣な視線を当てた。
「あんた、何を知ってるんだい。
犀とあの客にはなにがあるんだい」









夜になるといつも聞こえる三味線の音やひとびとの笑い声。
沈黙の中、犀には今、それが大きくも小さくも聞こえるように感じられた。
目の前の逸巳は青い顔のまま自分を見下ろしている。
それが何を意味するか、犀は考えたくなかった。
「・・い、逸巳さん・・?」
震える声でもう一度名を呼ぶと、逸巳はゆっくりと犀を抱いていた腕を外した。
「・・・誰から、聞いた」
逸巳の口からこぼれたのは期待していた否定のことばではなく、肯定に等しいそれだった。
「・・・っ、そうか、宗二朗か」
独り言のように呟かれたその名を聞きながら、犀は眩暈を覚え、
なにか冷たいものが頭のうしろ辺りから全身に広がっていくのを感じていた。
やっぱり、やっぱり、やっぱり。
頭の中にはそればかりがめぐる。
「犀」
名を呼ばれ、伸ばしかけられた手を、犀は反射的に跳ね除けていた。
そして次の瞬間、堰を切ったようにことばが口をついた。
「・・っ、なんでっ、・・僕、逸巳さんのこと、信じて・・っ、・・っ、なんで僕のお父さんとお母さん・・っ、
ぼく、僕のことが、そんな、そんなに嫌いなの、・・なんで、・・・なんで、なん、なんでっ」
みっともないくらいに動揺し、声が震えた。
言いながら立ち上がろうとした。
とにかく、この場から逃げたかった。
その腕を、逸巳はもう一度力強くつかんでひっぱった。
「ま、待て、犀!聞いてくれ」
その拍子に立ち上がりかけの犀は体制を崩し、再び逸巳の腕の中へと倒れこんだ。
「や、いやっ」
何がなんだか分からず、犀は逸巳の腕の中で暴れた。
視界が涙で霞む。
こらえる間もなく、それは滴となって次から次へと犀の頬を伝った。
逸巳はぎゅっと犀を抱きしめた。
犀はその力に抵抗することもできず、ただ顔を逸巳の胸に押し付けてしゃくりあげた。
「犀・・・犀、悪かった・・」
そうささやいた声がいつになく切なく震えているのにも、犀は気付かなかった。
「こんな・・こんなつもりじゃなかった。犀を苦しめるつもりじゃ・・・。犀、犀・・・」
そう言いながら、逸巳はさも愛しそうに犀の旋毛に唇を落とした。
そのやさしい感触に、犀はやっと、おそるおそる逸巳を見た。
見上げた逸巳の表情はその唇のやさしさとは反対に、苦しそうにゆがめられていた。
犀はそんな逸巳の表情を初めてみた。
「逸巳・・・さん?」
「犀、聞いて。俺は、確かに犀のご両親を殺した」
「っ・・・!」
分かっていても、はっきりと言われればやはり動揺した。
我慢しようと思えば思うほど、目からは涙があふれ出る。
「犀、けれど俺は犀が憎いからそうしたわけじゃない。犀が好きなあまり、そうした。」
犀は腕の中から逸巳を見詰め、濡れたその目を微かに見開いた。
そういわれてもよく分からなかった。
けれど、少なくとも、犀は自分のことをまだ好きだと言った。
「俺は犀のことを、この遊郭で出会うずっと前から知っていたんだ」
「・・・え・・?」
「犀の両親が借金をしていた金貸し。俺はあそこにたまに出入りしていた。そこで見たんだ、犀を」
犀は混乱しかけた頭のすみで、咄嗟に恥を感じた。
確かに犀は、毎月借金の支払いの期限が来ると、両親にその金貸しやに行かされ、
払えない言い訳をさせられていた。
あの姿を見られた。金貸し屋の主人に泣きながら頭を下げる自分を。
「初めて店の奥から犀を見たとき、目を奪われた。それからずっと、見るたび、見るたび、俺は犀に惹かれていった。いつか、俺があの子をあんな地獄から救い出してあげたい。そう思った」
「・・・で、でも僕は逸巳さんのこと、そのお店で一度も・・」
犀がそう言いかけると、逸巳は犀を抱いていた腕をゆっくりと解き、
布団の上に方膝を立ててすわりその綺麗な顔に自嘲的な笑みを浮かべた。
「俺が、あんな奴らと仲間だと思われたくなかった。犀を苦しめている奴らと。だから、いつもいつも、声をかけたい、触れたい衝動を抑えて、店のおくからそっと犀の姿を見ていた。
・・・見るうちに犀が実の親に激しい暴力を振るわれているのを覚って俺は物凄く腹が立った。
犀に、暴力を振るう親など、憎くて仕方なかった」
犀は目を伏せた。
そう、あの頃、両親はときに激しく犀を折檻し、隠しきれぬあざが首筋や手首から覗いていた。
「・・・だから俺は提案したんだ。金貸家に。犀の両親を始末して、犀を遊郭にでも売ったらどうかと。
俺の家は薬屋だ。それも、裏の。もちろん、きちんとした薬も売る。けれど俺の家は毒も作れば麻薬もつくる。
金貸しやは俺の提案にすぐ乗ったよ。俺はその毒で、犀の両親を殺したんだ」
犀は顔を上げた。
とその瞬間、ふと、思い出した。
―ああ、そうか、そうだったのか。
あの、不思議な香り。ときどき逸巳から香る、あの香り。
あれは薬のにおい。
両親が死んだとき嗅いだ毒薬の香りの混ざる、逸巳の家の香り。
だから、どこか覚えのある、それでいてあまり好きだと思えなかったのかもしれない。
逸巳は苦しげに眉をひそめると続けた。
「・・・でも、俺はそんなことするべきじゃなかった。いくら犀のことをひどく扱おうと、親は親。
宗二朗に、犀が両親の死を少なくとも悲しんでいると聞いたとき、俺は自分をのろいたい気分だった」
犀は目を見開いた。
「・・・宗、二朗・・?」
驚く犀を、逸巳は真っ直ぐ見詰めた。
「正確には宗二朗の客づてだ。宗二朗は、俺に雇われている」







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