犀が翌朝目を覚ますと、その隣に逸巳はいなかった。
日の具合からしてもう大分遅いのだろう、昼頃だろうか。
そう思いながらのろのろと身体を起こすと体中が痛んだ。
布団の横の衝立には犀の着物がかけられている。
そこでようやく自分がなにも身に纏っていないことに気付いた。
しばらくそのままぼうっとしていると障子が開き茜の声がした。
「・・・犀?起きたかい?」
ちょうど衝立で茜の姿は見えないが、近づいてくる気配がする。
「あ、茜さん」
遠慮なく入ってくる茜に犀は慌てて布団を引っ張り上げた。
たとえこんな場所でも、犀にとって女の人に裸を見られるということはひどく気恥ずかしかったのだ。
「お。起きてるじゃない。なに恥ずかしがってんの。女じゃないんだから、裸のひとつやふたつくらい」
茜はおかしそうにそう言って衝立の上から顔を出した。
「あ、おはようございます・・・」
「もう、おはようなんて時間じゃないよ。昼飯時も過ぎちゃってるんだから」
「えっ!」
「まったく、お客の見送りもしないで眠りこけるなんてなにやってるんだい」
その言葉に犀は顔を青くした。
ここ遊郭では枕を共した客の見送りは絶対であると教えられたのを、犀はすっかり忘れていたのである。
それどころかいつ逸巳が帰ったのかすら分からなかった。
「普通ならとっくにたたき起こしてるところなんだけどね、昨日のあんたの客が、
あんたを好きなだけ眠らせてくれって、大層色を付けてったんだ」
犀は目を見開いた。自分の睡眠のために昨日の客は金を置いていったというのか。
「あの客、見た目も随分いい男だったけど、気も良い男なんだねえ。今までこんな話、聞いたことないよ。
・・・まあ、あんたほどの美人なら客が入れ込みたくなるのも分かるけどね」
「そんな・・・・・」
「あっ、そうそう!」
そう声を上げると、茜は思い出したように懐から一枚の紙を取り出し犀に差し出した。
「これ、昨日の晩の客があんたにって」
受け取ってみるとそこには『逸巳』という文字が書いてある。
犀は紙から目線を上げ、首をかしげて茜を見た。
「それ、あんたの客の名前だよ。昨日の晩、どう書くのかを教えたけどわからないみたいだったからって。
・・・・世の中変わった客もいるもんだねえ」
茜はそう言って肩くをすくめて見せた。
犀はもう一度紙に目を落とした。
『逸巳』
犀は心の中でその名前を繰り返しながら、不思議な気分で青年の美しい顔を思い出していた。
「それにしてもあんな良い男が男色だなんて、もったいないよねえ。もしもそうと知らなかったら
この茜さんが誘惑してるところだよ」
見ると茜はおどけて前あわせをはだけるふりをしている。
犀は思わず笑ってしまった。
「あ、失礼だねまったく。笑ってる場合なんかじゃないよ。もう昼飯時を過ぎてるんだ。
これから風呂に入って、飯食ったら、もうあっという間に店に出る時間だからね」
「は、はい」
言われて犀がわたわたと着物をつかむと今度は茜がくすりと笑った。
「まあまあ、そんな急がなくってもいいよ。
風呂は火がもう入ってないからぬるいと思うけど、まあゆっくりしておいで」
「ありがとう、茜さん」
「よし、じゃ、また後でね」
そう言って茜は元気良く笑うと部屋から出て行った。









風呂場へ入ると犀以外は誰もいなかった。
他の少年達はもう入り終えているのだろう。
かけ湯をすると茜の言ったとおり湯はぬるかったが、今の暖かい季節にはそれでも十分だった。
湯船に身を沈めゆっくりと目を瞑りくつろいでいるとがらりと引き戸が開く音がした。
犀がびくりと目を開くと、そこには宗二朗が着物を着たまま立っていた。
「宗二朗・・・?」
犀が驚いて目を見開いていると、宗二朗はにこりと笑った。
「背中、流してやるよ」
そう言って袖をまくり紐で括ろうとしている宗二朗に犀は慌てた。
「えっ、いいよ。だって宗二朗はもうお風呂済ませたんでしょ?」
けれど宗二朗は袖と裾をまくり終えると犀に近づき手を取った。
「いいんだって。俺もどうせすることないからさ。ほら、あがりなよ」
「で、でも」
犀はなんとなく恥ずかしさを覚えて湯船の中で身体を縮めた。
「なんだ、恥ずかしいの?大丈夫だよ。俺はなにもしないから」
それでも湯船からあがろうとしない犀に、宗二朗は軽く溜息をついた。
「しょうがないなあ。じゃ、俺も着物ぬいできてやるよ」
「えっ」
犀が止める暇もなく、宗二朗は脱衣所で着物を脱ぎ、再び戻ってきた。
その宗二朗の身体は、細いながらも確かに犀より成熟したもので、
犀は少しの劣等感を覚えて余計湯船から上がりづらくなってしまった。
「ほら、おいでよ」
けれどそう言って木の腰掛まで用意する宗二朗に、犀はやはり断りきれなくなり、仕方なく湯船からあがった。
その途端に宗二朗の目が見開かれる。
「・・・セイ、本当に細いんだな」
犀はそう言われることが恥ずかしくて目を伏せた。
「でも、綺麗」
宗二朗はそう呟くとそっと犀の手を取り、そのまま抱き寄せた。
「えっ、そ、宗二朗!」
犀は困惑して宗二朗を見上げた。
素肌が触れる感覚に、犀の顔は熱くなる。
「これ、きのうの客の?」
そう言って宗二朗は犀の胸に散る紅い跡を指でなぞる。
その指の動きに犀はぞくりとしたものを感じて身を震わせた。
「ちょ、ちょっと、宗二朗!なにもしないって・・・!」
犀がそう言ってもがくと宗二朗はくすりと笑って腕を離した。
「ごめんごめん。セイがあんまり綺麗だからちょっといじわるしたくなった」
悪びれないその笑顔に、犀はほっと息をついた。


「セイはどうしてこの店に来たの?」
後ろで背中を流しながら、宗二朗がそう聞いた。
「うん・・・僕は両親が死んじゃって、残った借金のために売られちゃったんだ」
「そっか・・・悲しい?」
「・・・・・・・・・・」
沈黙する犀に、宗二朗は手ぬぐいを動かす手を止めた。
「・・・ごめん、こんな質問して。答えたくなかった?」
「・・・ううん。違うよ。わかんないんだ。・・・でも、やっぱりちょっと悲しいし、寂しいかもしれない」
「そう・・・・」
宗二朗は再び手ぬぐいを動かしながら言った。
「・・・俺はさ、親に売られたんだ。やっぱり借金。お互い、不幸な親の元に生まれたよな」
最後のほうは、わざと明るく言った宗二朗に、犀もくすりと笑った。
犀はこの店に宗二朗がいてよかったと、素直にそう思った。
「・・・ねえ、宗二朗は、どうしてこんなに僕によくしてくれるの?」
「うーん、なんでかな。多分、犀が俺のひとつ違いの弟と同い年で、なんとなく似てるからかな」
「ほんと?」
「あ、犀みたいに綺麗じゃないけど。でも、なんとなく、雰囲気が似てるんだ」
「そうなんだ・・」
「だからさ、これからも、なにか分からないことがあったら聞いてよ。一応俺、ここには一年いるんだ」
「ありがとう」
犀が振り向いてそう言うと、宗二朗もうれしそうに微笑んだ。
「あ、そういえば。昨日初めてとった客はどうだった?」
「うん・・・良いひとだったよ。・・・それに、すごく綺麗な人だった」
「へえ!なんか犀、運がいいな。今日も遅くまで寝てられたの、その人のおかげなんだろう?」
「・・・うん。でも、それはなんだか他のみんなに悪い気がして・・・」
「いいんだよ。そんなの。他のやつらの言うことなんか気にしないほうがいいよ。
どうせあいつら僻んでるだけなんだ」
「うん・・・・」
けれど犀は昨日の小柄な少年を思い出して少し憂鬱な気分になった。
「それよりさ、今日も良い客が取れるといいな」
犀はこくりと頷いた。
宗二朗が背中にかける生ぬるい湯を感じながら、犀は本当に、今はそれだけを祈っていた。








店に灯りが入ると、犀はやはり昨日と同じように緊張した。
まだまだ格子の外に手を伸ばす勇気はなく、ただただ隅で俯くだけだった。
罵声こそ浴びせないものの、他の少年達はそんな犀に冷ややかな視線を送っていた。
宗二朗も今日は早くに指名され、犀は居心地の悪い思い出そこに座っていた。
「ふん。やっぱ、宗二朗がいないとなにも出来ないんだ」
そう、一番初めに囁いたのは昨日と同じ、小柄な少年だった。
犀がびくりとしてそちらを向くと、その少年はあざ笑うかのように犀を見ていた。
「良い御身分だよね。昼過ぎまで寝てるなんてさ」
その言葉に他の少年達も反応する。
「えっ、恭、それ、本当かよ」
恭と呼ばれたその小柄な少年は、得意げな笑みを浮かべた。
「本当だよ。なんでも昨日の晩の客が、そのためにお金を置いていったんだってさ。
まったく、どんなやらしいことしておねだりしたんだろうね」
その言葉に周囲に笑いが起こる。
「ち、ちがっ・・・!」
犀が顔を赤くして立ち上がろうとしたとき、店の奥から茜の声が聞こえた。
「あんたたち、なにうるさくしてんの! セイ!客だよ!」
犀はびくりとそちらを向いた。
店の中へと向かうとき、恭の笑いを含んだ声が聞こえた。
「せいぜい今日もその清純な顔でおねだりがんばんなよ」と。




茜は忙しいのか、簡単に客の待つ部屋だけ伝えるとすぐに他の客に呼ばれて行ってしまった。
それが余計に犀の不安を募らせた。
昨日の晩は、がんばれ、緊張するな、などと、細かく動作も指示してくれたのだ。
これが普通なのだと分かっていても、どこかで茜を頼る気持があった。
犀はそんな自分を制するようにして背筋を伸ばしながら廊下を進んだ。
「お邪魔いたします」
部屋の前まで来ると、犀は昨日より毅然とした声を出せるよう努力した。

「お入り」

その声を聴いた瞬間、犀はどきりとした。
まさか。
聞き覚えのある気がするのは、自分の気のせいだろうか。
でも―。
どきどきしながら障子を開ける。
その向こうにいたのは。

「やあ。犀」

昨日と同じ、美貌の青年が、障子窓に腰かけ、微笑んでいた。




 
 
 
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