犀は比較的朝早く目が覚めた。 布団の上に身体を起こし隣を見ると、弥一はまだ寝息を立てていた。 腫れあがった頬と切れた口元の様子とは対照的に、その寝顔は安らかなものだった。 犀はそっと布団を抜け出だすと、音を立てないよう細心の注意を払いながら障子を開けて廊下に出た。 ぺたりとついた裸足の裏に、冷たい廊下の感触が伝わる。 廊下の微かな軋みがやけに大きく聞こえた。 時々通り過ぎる部屋からはぼそぼそと話す声が漏れてくる。 きっと早い客はもう起きる時間なのだろう。 犀は咽の渇きを覚えながら、一階へと続く階段を下った。 階段を下りて店のほうに出ると、丁度誰かが客を遊郭の門まで見送って帰ってきたのか、 暖簾の裾がゆらりと持ち上がった。 「あ」 「あ・・・」 お互いの顔を見た途端、ふたりは同時に声をあげた。 暖簾の下から顔を出したのは、宗二朗だった。 ふたりは早朝の遊郭を並んで歩いた。 周りにならぶ遊女屋はまだひとつも開いておらず、ちらほらと、客を見送る遊女たちが見えるだけだった。 「宗二朗」 「セイ」 ふたりで同時にお互いの名前を呼んで、はっと口を噤む。 そのまま再び黙って歩く。 犀がそっと横の宗二朗を盗み見ると、宗二朗もそうして犀を見ていた。 なんだかばつの悪い思いがして、ふたりはくすりと笑いを漏らした。 「・・・セイ、ごめんな」 笑みを消して、宗二朗がぽつりと言った。 犀は驚いて宗二朗を見詰めた。 「なんで宗二朗が謝るの?」 宗二朗は少し寂しそうに笑うと犀に聞いた。 「昨日、こわがらせちゃった?」 犀は無言で首を横に振った。 「僕、あのとき宗二朗が来てくれて助かったんだよ」 真剣な顔で覗き込む犀に、 宗二朗は弱々しい笑みを浮かべた。 そして足元に視線を落とし、ぶらぶらと大きく足を振りながら歩みを進めた。 草履がすれて規則的な音を立てた。 「俺、あのときセイと、自分を重ねてたんだ」 犀は咄嗟に宗二朗の横顔を見詰めた。 「俺、兄さんに、ああして襲われた。 信用してた、兄さんに」 言いながらつくろうとした笑顔は失敗して崩れ、その唇は細かく震えていた。 「頼りにしてたんだ。好きだったんだ。でも、でも、ある日俺が風呂に入ってたら―。」 宗二朗はぎゅ、と拳を握り締めた。 「兄さんはその後済ました顔して何もなかったことにしようとした。 俺、それから兄さんのことが憎くて仕方がない。血が繋がってるのに、凄く。自分でも驚くほど、憎んでる。 信用してたぶん、頼りにしてたぶん、裏切られたことが信じられなくて・・・、 っ、それで、それで、昨日、風呂入ろうとしたら、セイが叫ぶ声が聞こえて、まさか、と思って戸を開けたんだ。 そしたらセイが組み敷かれてて、なみだ目で、なんかそれ見たら、俺、兄さんのこと思い出して、 頭が真っ白になっちゃって・・・」 「そう、じろう・・・」 「俺、本当は自分から家を飛び出したんだ。借金で売られたなんて、嘘なんだ。「白柳」に来たのだって―」 そこまで言って、宗二朗ははっとしたように言葉を切った。 「―とにかく、ごめん」 そう言って宗二朗は目を伏せた。 何故途中で言葉を切ったのかも気になったが、それより今は、 宗二朗が負っている心の傷に、犀の心は締め付けられるようだった。 「なんで―、なんで。 そんな、宗二朗が謝ることなんて何もないよ。 それより、僕、そんな辛いこと話してくれて、うれしいよ」 言いながら涙がにじみそうで、犀はごしごしと目をこすった。 宗二朗も自分と同じくらい、いや、もしかしたらもっと辛い思いをしたのかもしれないと思うと、胸が痛んだ。 「ありがとう。セイ、優しいな」 宗二朗はそう言って微笑んだ。 けれどその笑顔はどこか苦しそうだった。 「もう、店のほうにもどろうか」 「うん」 ふたりはそのまましばらく黙って歩いた。 道を中ほどまで来たとき、宗二朗が顔を上げ、口を開いた。 「あーあ、それにしても、俺、やっぱりやりすぎたよね。顔、ひどかったもんなあ、弥一。恨んでるかな」 そう言った宗二朗の声は少し明るさを取り戻していて、犀はほっとした。 「ふふふ、そうだね。でもさ、大丈夫だよ。そのおかげで僕、助かったし、弥一も反省してたよ」 「えっ、セイ、弥一のこと赦したの」 「う、うん。だって、なんだか憎めないよ。それに、昨日は一緒に寝てもなにもされなかったよ」 「―・・っ、一緒に寝た!?」 「い、一緒の布団じゃないよ!でも、僕昨日お客さんつかなくて・・・」 宗二朗は絶句していたが、次の瞬間、溜息を吐いた。 「本当に、なにもされなかった?」 「うん」 「そう、ならいいけど・・・」 そこで少し、沈黙が落ちたと思うと、宗二朗がそっと横から犀の手を握った。 犀が驚いて宗二朗を見詰めると、宗二朗はやさしく微笑んでいた。 すれ違う人々の目線が気になり、恥ずかしかった。 かといってその手を振り払うことも出来ず、犀は微かに頬を染めながら、店までの道を歩いていった。 その晩の月は雲に隠れがちだった。 犀は布団を頭からかぶり、眠れないままでいた。 結局今晩も客がとれなかったのだ。 隣ではやはり、弥一が規則正しい寝息を立てている。 犀は布団から顔を出して溜息を吐いた。 今夜も誰かの相手をする必要もなくてぐっすりと眠れると思ったのに、今夜は目が冴える。 確かに見知らぬ誰かに抱かれなくて安堵はしている。 けれど犀は逸巳の腕のぬくもりを思い出していた。 またあの暖かく心地よい胸のなかで眠れたらどんなによいだろうと思った。 布団の中にもぐり目を閉じ想像してみても、そこはただの真っ暗な蒸し暑い空間でしかなかった。 犀は不安になっているのだった。今日も姿を見せなかった逸巳に。 本当に、また、来てくれるのだろうかと。 あんなに客をとるのが怖かったはずなのに。 けれど逸巳のあのやさしいまなざしに見詰められると、客と男娼という関係を忘れてしまいそうになる。 「逸巳さん・・・」 犀は呟いた。 呟いてから口に出した自分がちょっと恥ずかしくなった。 犀は布団から這い出すと開け放してある障子窓に腰掛けた。 遊郭一帯はもう、寝静まっていた。 犀は溜息を吐いて月を仰いだ。 その頃、宗二朗も同じようにして雲に見え隠れする月を見ていた。 その着物はきちんと整い、身体にも情事の後は一切見当たらなかった。 宗二朗は足を木の張り出しの上に乗せ、膝を抱えると溜息を吐いた。 んん、という声が聞こえ宗二朗が布団を見やると、男がうっすらと目を開けたところだった。 男はぼんやりと誰も寝ていない隣の布団を見詰め、あくびをひとつした。 それからあたりを見回し、窓の木枠に腰掛けている宗二朗を見つけると、 布団の中で腹ばいになり宗二朗のほうを向いた。 「なんだ、なにやってるんだ」 「―べつに。おじさんこそ、まだ朝じゃないよ」 宗二朗は言いながらすっと窓の外に視線を戻した。 男は苦笑した。 「おじさんか。そろそろ名前くらい覚えてもらってもいいものだが」 「興味ないね」 「もう彼此三ヶ月、ここに通ってるんだぞ」 「関係ないだろ。おじさんの前の人は半年間なにも言わなかったよ」 男が溜息混じりに笑う気配がした。 「そんな無愛想でよく男娼やってられるな」 「・・・俺の場合無愛想だろうがなんだろうが支障ないよ。 普通に、普通の客、相手にしてたらそれなりに愛想良くなってたかもしれないけどね」 男は鼻で笑った。 「普通の客・・・ね。じゃあ俺もお前を抱いたら愛想良くしてもらえるのか」 宗二朗は男をきつく見据えた。 男は肩をすくめた。 「冗談だよ。俺にそんな趣味はないからな」 宗二朗はすいと目をそらした。 「さっきも言ったけど、まだ朝じゃないよ」 男はもう一度肩をすくめると、「はいはい」と呟いて布団に入った。 宗二朗がそっと横目で見ると、男は宗二朗に背を向けていた。 少しすると規則正しい寝息が聞こえてきた。 宗二朗は月を仰いだ。 ―セイ、ごめん。 心の中で呟いた。 |
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