遊郭一帯が活気を帯びる、いつもの夜。
犀は膝の上の拳を強く握り締め、祈るような思いで正座していた。

「なあセイ、そろそろ本当に客とらないと、佐吉のおやじからなんか言われるぞ」
宗二朗が指名され店の奥に消えて少しすると今まで黙っていた弥一がそう声をかけてきた。
やはりふたりの間にはまだ気まずさが拭い切れないらしい。
犀はうつむいていた顔を上げた。
「う、うん・・・」

そうなのだ。
ここ三晩、また来ると言った逸巳はおろか、犀はただのひとりも客をとっていなかった。
弥一の顔の腫れもほとんど引き、今晩から一緒に店に出られるようにまでなった。
さすがに犀も焦り始め、もう逸巳でなくても良いからとにかく誰かに指名してほしかった。

「セイほどの美人で、客がつかないなんて、みんな見る目がないよな」
気を使いそう言う弥一にも、犀は力なく微笑むのが精一杯だった。

「なんだったら僕の場所、座れば。僕はもう指名かかったしね」
声のしたほうを見ると、恭がにやにやと笑いながら立ち上がったところだった。
「あ、う、うん・・・」
そう曖昧に頷く犀の横を通り過ぎながら、恭は卑下た笑みを見せた。
「僕はお前なんかこの店から追い出されちゃってもいいんだけど、
たまの夜の楽しみがなくなったらそこの弥一が随分悲しむだろうからね」
その言葉に弥一の顔色がさっと変わる。
「なんだと!俺とセイはそういうんじゃない!」
勢い込んで立ち上がった弥一を、恭は鼻で笑った。
「ふん、どうだか。襲いかけた相手と三日間も同じ部屋で寝て、何もないわけ?」
「なっ!!」
弥一は顔を真っ赤にしたかと思うと、次の瞬間、恭の胸倉をつかんでいた。
「弥一!だめだよ!」
犀が慌てて弥一を止めると、弥一は諦めたように恭の袷から手を離した。
それと殆ど同時に店の奥から茜の声が聞こえる。
「恭!なにやってんだい!お客様を待たせてんじゃないよ!」
恭は着物の前を直すと、ふたりに冷ややかな視線を向けながら店の奥へと消えていった。
後に残された二人の間にはなんとなく気まずい沈黙が残った。
結局そのまま座ると、夜の賑やかな音のなかに無言のままうつむいていた。




どれほどそうしていただろうか。

「犀」

犀は自分の名を呼ぶ声に犀ははっとした。
それは、明らかに少年たちの声ではない。
けれど聞き覚えのある声だった。
犀は顔を上げた。
そして、目を疑った。
格子の向こう、橙色の灯りと、行きかう人々を背に立っていたのは、紛れもなく逸巳だった。

「い、逸巳さん!」
そう叫ぶと共に犀はその場に勢い良く立ち上がった。
他の少年達が一気に犀のほうを向いた。
逸巳は目を細めるようにして犀に微笑みかけた。
すぐにでも格子のそばに駆け寄りたかった。
けれど他の少年達の視線が気になって結局犀ははおろおろとその場に立ち尽くすだけだった。
そんな犀の様子を見て逸巳はくすりと笑うとやわらかな視線を向けた。
「店の奥でね」
そう言いながら暖簾のほうへと向かう逸巳の美しい笑顔を、犀は鼓動を速めながら見詰めていた。

「あれがお前の客?」
逸巳の姿が見えなくなるとすぐに横にいた弥一がそう囁いた。
「うん。そうなんだ」
犀はなんとなくはにかみながらそう答えた。
その犀を見て弥一の顔が少し悲しげに曇ったかと思うと、奥から茜の声が聞こえた。












「仕事のほうが忙しくてね」
そう言いながら盃に口をつける逸巳を、犀は黙って見詰めていた。
三晩、いや、四晩ぶりだった。
普通に考えたらそう長くもないのだけれど、犀には他の客がついていない分、とても長く感じられた。
不安だったと、この店から追い出されやしないかと心配だったと、
ほんとうは泣き言のひとつでも言って甘えてみたかった。
けれど逸巳の落ち着いた様子と、
今まで両親に甘えることが許されなかった過去から、犀はどうしていいのかわからなかった。
どことなく戸惑いを隠せない犀を、逸巳も黙って見詰め返すと、静かに盃を置いた。
そしてそっと犀を抱き寄せ優しくその腕に抱きこんだ。
「会いたかったよ」
そう優しく耳元で囁かれて、犀は今まで自分で抑えていたものがあふれるのを感じた。

「僕、僕も、逸巳さんに会いたくて・・・。でも他のお客さん取れなくて。不安で・・」
そう言いながら、犀はいつの間にか涙を流していた。
一瞬、逸巳はそれを驚いたように見詰めたが、
すぐに柔らかい微笑を浮かべると、その手で涙をそっとぬぐってやった。
「大丈夫。俺がこの店に通う限り、犀を追い出させなどしないよ」
そう言いながら逸巳は犀の目じりに口を落とし、さらに唇をふさいだ。
犀はどきどきとしながら目を閉じた。
三味線の音や人々の声が微かに耳に届く。
唇が離れるのを感じて目を開くと、目の前に逸巳の美しい顔があり、犀は自分の顔が熱くなるのを感じた。
そのまま事に及ぶのかと思ったが逸巳は身体を離すと微笑みかけた。
「今日は犀も飲むだろう?」
そう言いながら盃を差し出す逸巳に、犀はどう答えていいものか困ってしまった。

「あ、あの、僕、お酒飲んだことなくて・・・」
結局は素直にそう言った犀に、逸巳は悪戯っぽく笑った。
「じゃあいい機会じゃないか」
なおもそう進める逸巳に、犀は戸惑いがちに盃を受け取った。

とろりと、透明な液体が朱色の盃に注がれる。
犀はそれをおずおずと口に近づけると、そっと舌先で酒を舐めるようにして味をみた。
ぴりりとした味が微かに広がる。
複雑な顔をしている犀を見て、逸巳はくすりと笑った。
「そんな少しじゃ分からないだろう?」
逸巳のその言葉に、犀は決心をしたように一気に盃を煽った。
途端、胸の辺りがじん、と熱くなり、犀は思わずむせそうになった。
なんだか鼓動まで速くなったようだ。
口の中には甘いとも苦いともつかない味が広がる。
「うまい?」
そう問う逸巳を見上げて、犀は「あんまり・・・」と小さい声で答えた。
逸巳は再びくすりと笑うと、
「今度は俺に酌してもらえるかな」と言って銚子を犀に持たせた。

そうして何度か互いに盃を交わした後、
犀は自分の身体が熱く、それでいてふわふわと浮くような感覚を覚えていた。
逸巳が再び盃を進めるのが見えたが、犀はさすがにそれを制するように手を出した。
「あ、あの、もう僕なんだか変で・・・ごめんなさい・・・」
逸巳がふっと笑う気配がした。
「もう、酔いがまわった?」
その言葉もなんだか遠くに聞こえる気がした。
「少し、飲ませすぎたか」
そう言いながら再び酒を煽る逸巳の姿を、犀はお酌しなくちゃ、と思いながらもぼんやりと見詰めていた。
そのうち逸巳の顔が近づいてきたと思うと、口付けをされた。
と、同時に口の中に酒が流れ込む。
いきなりのことに犀は思わずむせ返った。
「けほっ」
飲みきれなかった酒が顎を伝う。
それを逸巳の舌が追う。
「ぁ・・・」
犀はその舌の動きに思わずぞくりと身体を振るわせた。
身体も顔も熱く、瞳が潤むようで視界がはっきりしない。
けれど突然、そのぼやけた視界が大きく回る。
逸巳に布団に横たえられたのだと気付くまでには少し時間がかかった。
「犀、色っぽい・・・」
そう囁かれ、もともと速かった鼓動がさらに速度を増す。
「覚えている?この間俺が言ったこと。今日の分はまた今度もらうよって」
言いながら顔を近づけ、逸巳は再び口付けた。




もう何度目だろうか。
犀は逸巳に突かれながら、再び絶頂を迎えようとしていた。
酔いのせいで意識はぼんやりとかすんでいるくせに、
なれない痛みと、それ以上に絶えず湧き上がる快感に、身体は敏感に反応する。
「ん、はっ、い、つみさんっ。―っ、も、やぁっ、」
前を弄られるたびに、目の前が気持ちよさにちかちかとする。
「犀。犀。―、可愛いよ」
そう甘く囁かれ、優しく口付けられ、犀はなんだかじわりと泣きたい気分だった。
そんなふうにされると本当に、客と男娼だということを忘れてしまう。
「あっ!」
一層深く突き上げられ、犀は背をそらせた。
そのまま達すると、意識がだんだんと遠のいていく。
逸巳の溜息が聞こえたかと思うと、熱いものが身体の奥に広がった。
ああ、逸巳さんも気持ちよかったのかな。
そう安堵を感じてまどろみの世界に引き込まれる中、
最後に残ったのは額にふわりと落ちる逸巳の唇の感触だった。

犀は満ちたりた、けれどどこか切ない気持で完全に目を閉じていった。










「セイ、セイ!」
犀がその声に目を開けるとぼんやりとかすんだ天井の木目が見えた。
もう随分と明るい。
犀は身体を起こそうとしその途端ずきりと頭を走った痛みに額を押さえた。
「大丈夫?」
そう心配そうに覗きこんだのは、宗二朗だった。
「宗二朗・・・・」
「酒、飲まされたんだって?大丈夫?」
「あ、そうか、そうだっけ・・・」
そういわれて初めて、昨日酒を飲んだことを思い出した。
とはいっても霞がかかったようではっきりとは覚えていない。
酒を飲んで逸巳に抱かれたらしいことだけは記憶にあるものの、
詳細までは記憶に残っていないのだ。
そこまで考えて犀ははっとした。
「あ!逸巳さんは!?もう帰っちゃった!?」
その犀の慌てた様子に、宗二朗は思い切り顔をしかめた。
「そんなこと気にしなくていいんだよ。セイ、二日酔いだろ?
無理矢理飲まされたんだから、あいつが余分に金置いていくのも当たり前だよ」
その言葉に犀は目を見開いた。
「えっ、もしかして逸巳さん、また僕が眠れるようにお金置いてってくれたの?」
犀がそう言うと、宗二朗はしまったというように目を逸らした。
「茜さんに、俺が言ったって言うなよ。本当は口止めされてるんだ」
「あ・・・・うん」
「今さ、茜さん忙しいから俺がセイの様子を見るように頼まれたんだ」
「ありがとう」
そう言って笑おうとしたものの、頭に痛みが走って思わず顔を歪めてしまった。
宗二朗はくすりと笑って立ち上がると、障子のほうへと向かった。
「初めて飲んだんだろう?今水もってきてやるよ」
そう言って宗二朗が部屋から出て行ってしまうと、犀は再びぼんやりと逸巳のことを考えた。

「また、しばらく会えないかな・・・」

そう呟いた独り言が、やけに大きく頭に響いた。






 
 
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