犀はどこか浮き足立った気持で風呂場へと向かっていた。
というのもここ二晩、続けて逸巳が店に顔を出してくれたのだ。
身体は辛くないこともなかったが、逸巳の顔を見るとそれ以上にどこかしら安堵するの。
二日酔いだった翌晩も、逸巳はただ抱きしめて眠るだけにとどめてくれた。
そんな風に優しくされると、犀はうれしさに涙がにじむほど胸が温かくなり、また、戸惑いも感じるのだった。


そんなことを思い出しながら湯船に浸かっていると、風呂場の引き戸が開いた。
顔を上げるとそこには宗二朗が立っていた。
「今さ、セイが風呂場に入るとこ、見えたから。一緒に入ろうかなと思って・・・」
窺うようにしている宗二朗に犀は微笑み返した。
「うん。あ、そうだ。この間背中流してもらったから、今日は僕が宗二朗の背中流してあげるよ」
そう言った犀を見て宗二朗はうれしそうに笑った。

「この間はさ、話聞いてくれてありがとう」
並んで湯に浸かりながら宗二朗がぽつりと言った。
「・・・え?」
犀が一瞬何のことか分からず首をかしげると、宗二朗はかすかにゆらめく湯をじっと見詰めたまま続けた。
「・・・兄さんのこと」
「あ・・・」
「俺、今まで誰にも話したことなかったんだ」
そう言いながら宗二朗はぽちゃり、と湯をあそんだ。
その切ない気持が伝わってくるようで犀の胸はきゅ、と縮む。
犀は宗二朗の横顔に真剣な視線を送りながら首を横に振った。
「そんなことでお礼言わないでよ。僕のほうこそ宗二朗にお礼いいたいのに。
宗二朗がこのお店にいてくれて、僕、すごく良かったと思ってるよ」
その言葉に宗二朗の横顔が自嘲気味にゆがんだ。
「俺、犀にお礼言われる資格なんてないよ」
「なんで・・なんでそんなこと言うの?」
そこで初めて宗二朗は顔を上げ犀の目を見た。
犀にはその瞳が心なしか揺れているように見えた。
「セイ・・・・」
宗二朗は犀の名をそっと呟くと手を犀の頬へと伸ばした。
犀は思わずびくりと身体を揺らす。
宗二朗は頬へ置いた手をうなじへと滑らせると、そのままぐいと手前に引いた。
そして安定を失って前のめりに湯の中へ沈みそうになる犀の腰に手を沿え、その身体を抱きこんだ。
犀はその顔を宗二朗の肩口に押し付けるような形になり、顔を熱くした。
頬には宗二朗の火照った肌があたる。
「セイ・・・」
もう一度名前を呼ばれ犀は顔を上げた。
そこには切なそうな色を浮かべた宗二朗の瞳があった。
犀は戸惑った。
熱い手が再び頬にかかる。
そして宗二朗がそっと顔を寄せたときだった。
がらりと音がした。
ふたりがはじかれたように引き戸のほうをみると、恭が手ぬぐいを握り締め呆然としていた。
「そう・・じろう・・?」
恭の声に犀ははっとして宗二朗から身体を離した。
宗二朗も困惑しているようだった。
恭の視線にいたたまれなくなり犀は湯からあがると風呂場を後にした。
横を通り過ぎるときも、恭は呆然とその場に立ち尽くし宗二朗を見詰めたままだった。
犀は引き戸を後ろ手に閉めると一気に息を吐き出した。
まだ湯の残る胸に手を置いた。
鼓動が速かった。
それが単に湯にのぼせたせいなのか、それとも他のことが原因なのかは分からなかった。









「犀も少し飲むか?」
逸巳はそう言っていつものように盃を差し出した。
今日も逸巳は店に顔を出した。
犀はそれがうれしくて仕方がなかった。
「あの・・・ごめんなさい。やっぱり僕、お酒は」
けれどやはり犀はいつものようにそれを断った。
初めて酒を口にした日以来、犀は盃を進められても断り続けている。
今日も再び拒否の言葉を口にした犀に、逸巳はふと不安げな表情を浮かべた。
「・・・やはりあの日、飲ませすぎたか?そんなに次の日、辛かったか?悪いことをしたかな・・・」
そう言う逸巳に、犀は酒を飲みたくない理由を言おうか言うまいか、一瞬迷った。
が、結局恥らいながらも犀は口にした。
「あ、あの、そうじゃないんです。僕・・・覚えていたくて」
それだけでは分からなかったのか、優しげな目で首をかしげる逸巳に、犀は顔が赤くなるのを感じた。
「お酒飲んじゃうとはっきり覚えていられなくて。逸巳さんとのこと。
・・・僕、覚えていたいんです。
またいつか会えなくなっちゃうのかなと思うと、お酒のんで記憶がはっきりしなくなっちゃうの、
もったいなくて・・・。あの、ごめんなさい。へんですよね。ただの男娼と、お客さんなのに・・・」
犀はそこまで言うと目を伏せた。
逸巳がふと笑う気配がした。
馬鹿にされたかもしれない。やっぱり言わなければ良かった。
犀はそう思って膝の上に置いた手を小さく震わせた。
恥ずかしさから涙がにじみそうだった。
「犀」
声をかけられてもなお顔をあげられないでいた。
「こっちへおいで」
そう言われてようやく犀はおずおずと逸巳のそばへと寄った。
犀がうっすらと涙の滲みそうな目で見上げると、逸巳はその美貌にやわらかな笑みを浮かべていた。
一瞬、犀がその顔に見蕩れていると、今度はふわりと抱きしめられた。
「犀・・・、好きだよ」
犀は目を見開いた。
なにか言おうと口を開いたが言葉がでない。
その唇を、逸巳がそっとふさいだ。
「ん・・・・」
舌を吸われ、下唇を甘噛みしながらその口が離れていくと、犀はそれだけでくらりと眩暈を感じた。
そしてもう一度、耳元で熱い息と共に囁かれた。
「犀。好きだ」
犀はその言葉に答えようと必死で言葉を探す。
「・・・・っ、ぼ、僕もっ、逸巳さんのこと、す、好き・・・っ、んっ・・」
そう言い終わるか終わらないかの内に逸巳は再びその唇をふさいだ。
「んん・・・っ」
流れ込む唾液を犀は必死に咽を鳴らして飲む。
それでも飲みきれず唇の端から漏れ伝い落ちる唾液を逸巳の舌が追う。
逸巳の手は着物の前をはだけ、またそこに唇を落とす。
犀はびくりと反応し、それだけで身体を震わせた。
ここ数日、逸巳に抱かれ続けている体は快楽に敏感になっている。
逸巳はそんな犀の様子に目を細めると再び愛撫を再開した。
犀が早くも息を荒くするなか、逸巳は口付けをあちこちに降らせながら熱っぽくささやいた。
「一目見たときから、惹かれてたんだ。ずっと、ずっと、この肌に触れ、愛撫を施すのを―」
逸巳はそこで胸の突起を口に含んだ。
「、ぁっ・・・!」
犀は微かに悲鳴を上げて背をそらせる。
そして逸巳は熱くなり始めている犀自身に手を触れた。
犀は快楽に息を詰まらせながら、頭の中、夢見心地で逸巳の好きだと言った言葉を反芻していた。









ゆるゆると暖かい手が髪を梳く。
心地が良い。
目を閉じたまま息を吸うとほのかに香る香り。
ああ、また、この不思議な香り。
なんだか自分はこの香りが好きではない気がする。
あまり深く考えたくない。
そう、自分の心が教えている気がする。
そんなことを考えながら犀はようやくうっすらと目を開けた。

「おはよう」
頭の上の声に顔を上げると、美しく微笑む逸巳の顔があった。
「おはようございます」
犀はどこか恥ずかしさを覚えながらそう答えた。
何度夜を重ねてもやはり次の日の朝というのは日の光が明るくて
妙に後ろめたい気になってしまうのだった。

「明日から少し仕事が忙しくなるんだ」
急にそういわれてきょとんとしている犀の黒い髪を撫でながら、逸巳は少し間をおいて続けた。
「少しの間、また店に顔を出せないかもしれない」

明らかに残念な気持が顔に出たのだろう。
犀の顔を見て逸巳が苦笑した。
「一週間位かな。そうしたらまたかならず来るよ」
「・・・そう、ですか」
犀は逸巳の腕の中でさらに項垂れた。
その犀を見て、逸巳はぽつりと囁いた。
「・・・うれしいな」
けれど犀にはその言葉の意図が分からず、首をかしげた。
「一週間会えないと分かって、残念に思ってくれているんだろう?」
途端、犀の頬が微かに朱に染まり、逸巳は再びくすりと笑った。
「もう少し、こうしていようか」
そう言って微かに力の込められた腕の中、犀は暖かい気持でゆっくりと目を閉じていった。













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