瑞貴はぼんやりと弁当の包みを広げた。
「昨日、いきなりどうしたんだよ」
純一は瑞貴の隣に腰を下ろすと不機嫌な顔でそう瑞貴に聞いた。
「ごめん・・」
口ではそう謝りながらも、瑞貴の心はすでにここになかった。


今朝も朝早く登校し、どこか胸を弾ませながら音楽室への階段を登っていた瑞貴は、
ふとピアノの音色が聞こえないことに気付き、思わず階段の途中で足を止めた。
そこには朝の静寂が広がるだけだった。
今日は練習していないのだろうか。
それでももしかしたら少しの間休んでいるだけかもしれないと思い、
音楽室まで足を運んだ瑞貴の淡い期待は、鍵のかかったドアの前で打ち砕かれた。
ドアのガラス窓から中を覗いてもそこには人気がなく、
黒いグランドピアノが朝の光を黙って受けているだけだった。

「おい、瑞貴!」
そう強い声で呼ばれ瑞貴ははっと我に返った。
「あ、ごめん。なに?」
「なにぼうっとしてるんだよ。昨日の放課後、なにかあったのか?」
その言葉に瑞貴は無意識のうちに自分の手に触れた。
昨日の放課後、怜次が触れた場所。
身体の奥からぞくりとするような奇妙な感覚が湧き上がる。

再びなにか違うことを考えている様子の瑞貴に、純一は溜息をついた。
「まあいいよ。今日の放課後こそ付き合えよな。俺、買いたい服があるんだ」
「あ、う、うん」
瑞貴が曖昧な表情でそう頷くと純一は微かに眉をしかめた。
「なに、考えてるんだよ?」
「え?」
どこか不機嫌な声色に、瑞貴は純一の顔を見詰めた。
「なに、違うこと考えてんの」
「あ・・え・・・・」
瑞貴は自分でもどう説明していいか分からず、咄嗟にいいわけを探した。
「あ、あの、今日の五時間目の教科書忘れちゃったなと思って・・」

そう言った瑞貴に純一は何か言いたそうだったが結局口をつぐんだ。
それ以上追求しない純一に瑞貴はほっとしながらも再び怜次のことを考え始めていた。














次の日の早朝、瑞貴はいつものように登校した。
靴を履き替えながら早くもピアノの音を期待して耳を済ませている自分に気付き、
どことなく気恥ずかしさを感じた。
何故自分はこんなにも怜次が気になるのか分からなかった。
けれどただ友達になりたかった。
もっと話してみたかった。

階段を登っていっても聞こえてこない音色に、瑞貴はがっかりしていた。
それでも音楽室の前まで行き、誰も居ない教室内を覗く。
溜息をひとつついて自分の教室へ戻ろうかと向きを変えた瑞貴は背後から近くなる足音に振り向いた。

「おはよう、野田君」
驚く瑞貴に、怜次は薄く微笑みながら近づいた。
「貴島君・・」
怜次はそのままポケットから鍵を取り出すと、ドアを開けた。
そして瑞貴を中に入るよう促すと自分も中に入りドアを閉めた。

「ごめんね。もしかして昨日も来ていた?」
言い当てられて瑞貴はどきりとした。
顔を赤くする瑞貴に怜次はくすりと笑うとそのままピアノの前に座った。
瑞貴もそれにつられるようにしてピアノの向かいの椅子に腰を下ろした。
ピアノをはさんで怜次と向かい合う形になる。
怜次は俯きポーン、とピアノをはじいた。
「父さんが少しうるさくてね」
「え?」
瑞貴が思わず怜次の顔を見詰めるのと同時に、怜次も顔をあげ薄く微笑んだ。
自然とピアノの屋根の隙間から目が合った。

「なにか聴きたい曲、ある?」
「えっ・・・」
「今日はカンパネラを弾く気分じゃないんだ。リクエスト、ある?」
瑞貴は目を泳がせた。
「あの・・でも、俺クラシックとか全然詳しくないし・・・」
すると怜次はピアノ越しに微笑んだ。
「でも、きっと野田君も普段結構耳にしていると思うよ。曲名を知らないだけで。
ほら、ラ・カンパネラみたいに。・・・これ、知っているだろう?昨日君が少しだけ弾いた曲だよ」
そう言って怜次がかなで始めた音色は確かに瑞貴にもなじみのあるものだった。
ラ・カンパネラとは違い穏やかだけれど、綺麗な旋律の曲。
曲名を聞きたかったけれど、顔を伏せがちにしてピアノを弾く怜次を見ていると
その美しさを邪魔するのはいけない気がした。
するとふいに怜次はピアノを弾く手を止めて顔を上げた。
「ノクターンっていうんだ」

「あ・・なんかその名前は聞いたことあるかも・・」
「だろう?夜想曲ともいうね」
そう言って怜次は椅子から腰を上げた。
もう今日は弾かないのだろうか。
少し残念に思いながら瑞貴も立ち上がると、怜次が口を開いた。
「今日も少し弾いてみる?」

「えっ!・・・いいの?」
瑞貴が驚いて目を見開くと、怜次はくすりと笑った。




最初は近くに感じる怜次の息遣いや時折頬に触れる髪などにどきどきして緊張しっぱなしだったが、
そのうち瑞貴は夢中で怜次の言われるとおりに指を運んでいた。

気付くとチャイムがなり、時計の針はホームルームの始まりの時間を指していた。

「どう?少しピアノを弾いてみて」
音楽室に鍵を掛けながら怜次がそう聞いた。
廊下には登校してきた生徒の声が教室のなかから響いている。
「うん。・・結構難しいけど、面白い」
瑞貴が素直に笑ってそう言うと、怜次もうれしそうに微笑んだ。
その笑顔に照れながら瑞貴が階段のほうへ向かうと怜次も同じく階段のほうへと足を向けた。

「あ・・やっぱり貴島君も2年生なんだ?」
3年生の教室はこの階だから階段へ向かうということは下の階の2年生か1年生だった。
怜次は瑞貴の質問に、返事の変わりに微笑んだ。
どこか大人びた怜次に瑞貴は敬語を使わないことを後ろめたく思っていたが同じ学年だとわかって瑞貴は少しほっとした。

「俺、1組なんだけど・・貴島君は何組?」
「俺は5組だよ」
一番離れている教室だということに瑞貴は少しがっかりしたが、なぜかそれを怜次に悟られたくなくて
何もいわなかった。

「じゃあ、俺こっちだから・・」
階段を下りきり、そう言って反対方向に向かおうとする怜次を、瑞貴は思い切って呼び止めた。
「あ、あの、貴島君!」
呼ばれた怜次は足を止めると瑞貴を振り向いた。

「あの、あのさ、これからも・・・良かったら朝、とか、・・ピアノ、教えてくれないかな・・・」
最後のほうは声が小さくなりながらも瑞貴がやっとそれだけ言うと、
怜次は微かに目を見開いた後、ふわりと笑った。
「よろこんで」
瑞貴はうれしくて全身がかっと熱くなるのを感じた。

「あっ、あの、それから!・・・み、瑞貴って呼んでくれると・・うれ、しいんだけど・・」
言ってから恥ずかしさに顔がさらに赤く染まる。
そんな瑞貴に怜次はくすりと笑うと、「もちろん」と言った。

「じゃあ、また明日の朝」
そう言って教室のほうへと歩いていく怜次の背中を、
瑞貴は夢見心地で見送っていた。




ノクターン


 <小説目次>