「ここが俺の家だよ」
そう言って瑞貴が案内された家は学校から少し歩いた住宅街にある、そのなかでも大き目の家だった。
今は家にだれもいないのか、怜次は鍵を取り出すとドアを開けた。
そしてそのままドアを押さえて道を開けると瑞貴に微笑んだ。
瑞貴は促されるまま夢見心地で家の中に入った。
ふと何故学校をサボってまでこんなところにいるのだろうという考えが頭を掠めないでもなかったが、
怜次の家に足を踏み入れているという大きな緊張と高揚感がすぐにそれを打ち消した。

玄関に入るとそこから家の奥までフローリングの廊下が続いており、
その最奥の右手に二階へと続く階段が見える。
瑞貴が靴を履いたままなんとなくその辺りを見回していると先に靴を脱いで上がった怜次がくすりと笑って
廊下の左にあるガラス張りのドアを開けた。
「どうぞ」
瑞貴は慌てて靴を脱ぐと小さな声で「お邪魔します」と言って家に上がった。
「うわあ・・凄い・・」
瑞貴はその部屋に入ったとたん溜息ともつかぬような感嘆の声を漏らした。
そこはリビング・ルームで右はダイニング・キッチンへと繋がっている。
辺りを飾る丁度品はセンス良く統一されていて暗めの色のフローリングの床も綺麗に磨かれていた。
奥には一面に窓がとってあり、広い部屋の中を明るく照らしている。
そしてなにより瑞貴を驚かせたのが、ソファの奥、一面の窓に沿って置かれたグランド・ピアノだった。
瑞貴は半ば興奮しながら部屋の中を見回した。
「凄いね!こんな広い家に住んでるんだ」
怜次は笑いながらキッチンへと入るとグラスをふたつカウンターの上へ出した。
「普通の家より少し広いだけだろう?」
瑞貴はきょろきょろと首を動かしながらキッチンの方へ向かい、
怜次の目の前のカウンターのスツールにぎこちなく腰掛けた。
「でも、グランド・ピアノが置いてある家なんてそうそうないよね」
瑞貴の高揚した口調とは反対に、怜次はアイスティーをグラスに注ぎながらどこか義務的な口調で言った。
「今はあまり使ってないけどね」
瑞貴は思わず怜次を見詰めた。
「えっ、なんで?どこか壊れてるの?」
「そうじゃないんだ」
怜次はそう言うとキッチンをでてピアノの方へと向かった。
瑞貴は不思議に思いながらもスツールから降り同じようにピアノのそばへと移動した。
怜次はピアノの椅子の下に掛けてある小さな鍵を取るとそれでピアノを開けた。
何故鍵が掛けてあるのか不思議に思いつつ無言でそれを見ていると、怜次が微笑んで瑞貴に言った。
「せっかく来たんだし、少し弾いてみる?」
瑞貴は戸惑いながらも小さく頷き、ピアノの前の椅子へ腰掛けた。
瑞貴がとりあえず鍵盤に手を掛け、ポン、と一音弾いたとき、
頭の上からぽつりと怜次の声がした。
「俺、ウィーンへ留学していたんだ」
「えっ?」
瑞貴は驚いて横に立つ怜次を見上げた。
「去年の夏、ウィーンへ飛んで、半年間、ピアノの勉強をしていたんだ。
本当なら一年間、向こうに居るつもりだった」
瑞貴は混乱しかけて首を微かに傾けた。
「え・・ってことは、怜次君・・・本当なら今、三年・・生・・?」
怜次はふっと笑った。
「ああ、そうだね」
「え・・え・・でも、なんで・・・」
「なんで言わなかったか?」
「あ・・・うん・・」
「別に、そんなのどうでも良いと思ったんだ。少なくとも俺にとってはどうでも良かった」
瑞貴は目を泳がせた。
「あの・・でもなんで、半年で帰って・・来たの?」
怜次は辛そうに眉を寄せると、そっとピアノのふちをなでた。
「母さんが死んだんだ」
「あ・・・ごめん・・」
瑞貴は思わずそう小さく謝ると視線を怜次からそらしピアノの鍵盤を見詰めた。
「・・・俺の母さんはピアニストだった。無名だけれど、俺も、父さんも、母さんの弾くピアノが好きだった。
だから俺も母さんを目指してピアニストになろうと思った。
このピアノはその母さんがずっと昔から使っているものなんだ。
・・・・だから俺はこのピアノを父さんの前で弾けない。きっと母さんを思い出して悲しむだろうから」
瑞貴はピアノのふちに置かれた怜次の手を見詰めた。
力強い感じのする、けれど長くて綺麗な指だった。
「だから貴島君、毎朝学校に来て練習してたんだ・・・?」
「ああ・・・でも父さんもそんな俺に気付かないはずがなくて、ある朝、学校に行こうとしたら呼び止められた。
父さんに気を使わなくてもいいって。好きなだけ家でピアノを弾けばいいって。
留学のことも考え直せと。でも・・そう言う父さんの目はやっぱり母さんの死をまだ悲しんでいて。
俺はやっぱり父さんの前ではピアノを弾けないと思った。
・・・・・それに・・・・俺は母さんが死んで分からなくなったんだ。なんのためにピアノを弾いていいのか。
いや、逆に母さんが死んで気付いたんだ。俺は母さんが喜ぶからピアノを弾いていたって。
ただ母さんのためにピアノを弾いていたんだ」
すると怜次がふっと皮肉な笑みを口元に浮かべた。
「おかしいよね。それでも俺はピアノから離れられない。毎朝早くに学校へ行ってでもピアノを弾こうとするんだ。・・・・ラ・カンパネラは向こうのコンクールで弾くはずの曲だった」
口元から笑みが消え、代わりに眉がひそめられた。
声が微かに震えている気がするのは瑞貴の気のせいだろうか。
「でもやっぱりこんな中途半端な気持で弾いていてもうまく弾けなくて・・・
もう、こんな状態ならピアノをやめたほうがいいかもしれない」
その言葉に瑞貴は勢い良く顔を上げた。
「そんな・・・そんなこと言わないでよ。俺、怜次君の弾くピアノ、好きだよ。
音楽のこととか・・よく分からないけど・・俺、ラ・カンパネラを聞いたとき、鳥肌が立ったんだよ」
必死にそう言う瑞貴に、怜次は驚いたように目を見開いた。
じっと見詰められ、瑞貴は急に今言ったことが恥ずかしくなった。
自分の顔が熱くなるのが分かった。
きっと赤くなっている。そう思ってさらに恥ずかしくなり俯くと、怜次がすっと目を細めた。
次の瞬間ふっと頬に触れられる感触を覚え、瑞貴がふいに顔を上げると、
怜次が瑞貴の頬に手を沿え、顔を近づけてくるところだった。
あ。と思ったとき。
瑞貴の唇は、怜次のそれによって捕らえられていた。
最初はふっとやわらかいものが唇にあたり、次に軽くそこを吸われ、そして怜次の暖かい舌は最後に
瑞貴の唇をそっと舐めて離れて行った。
それは一瞬のような、長い時間だったような。
瑞貴の背をしびれるようなぞくぞくとしたものが駆け上がる。
身体が硬直してしまったような、それでいて力が全て抜けてしまったような、そんな奇妙な感覚に襲われた。
ぼうっとしていた瑞貴は怜次がくすりと漏らした笑いで我に返った。
一気に身体の温度が上がる。
「なっ・・な、なんで・・・・・っ」
突然の出来事にうまく言葉が出てこない。
瑞貴は真っ赤になりながら口をぱくぱくと動かすだけだった。
「なんでだろうね。したかったんだ」
悠然と綺麗な笑みを浮かべそう言う怜次を、瑞貴は信じられない思いで見つめた。
「し、したかったって・・・き、貴島君・・・」
そう言う瑞貴に、怜次は顔を寄せ耳元で囁いた。
「ねえ、俺のことも怜次って呼んでよ」
瑞貴がびくりと身体を震わせると、怜次はそのまま顔をずらしてもう一度唇を重ねた。
今度はすぐに舌がぬるりと入り込む。
「んぅ・・・ふ・・」
頭の芯が解けてしまいそうな感覚に、思わず声が漏れる。
怜次の舌は歯列の裏をなぞり、上顎をくすぐり、瑞貴の口内を蹂躙する。
「ふぁ・・」
ようやく唇が離れたのと同時だった。
瑞貴の制服のポケットからけたたましいベル音が鳴り響き、ふたりはびくりとした。
携帯電話の着信音だった。
キスの余韻で震える手を叱咤しながら瑞貴はやっとの思いで電話をとりだす。
着信画面には‘純一’と出ていた。
そこで瑞貴は学校をサボってきていたことを思い出し、慌てて通話ボタンを押した。
「も、もしもし?」
電話に出た瞬間、純一の大きな声が聞こえてきた。
「今、どこに居るんだ?瑞貴、荷物はどうするんだよ」
「あっ!そうだ、荷物!」
そう言って瑞貴が怜次を見ると、怜次はくすりと微笑んだ。
そしてリビングのドアを開けると瑞貴を促した。
瑞貴はとまどいながらも椅子から腰を上げ、ドアへと向かった。
それでもドアの前でためらっていると、携帯電話から「聞いてるのか」と純一の大きな声が聞こえた。
怜次はもう一度くすりと笑うと瑞貴の耳に口を近づけ囁いた。
「また、明日の朝」

瑞貴は名残惜しさを感じながらも怜次の家を後にした。





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