夢中になってお互いを求めたおかげで、
晋一が家につく頃にはすっかり暗くなってしまっていた。
庭へと続く門を開ければそこに植わる大きな桜がすぐに目に入る。
あたりが暗くなる今の時間、その満開の花は家から漏れる明かりに照らされ
昼間とは一味違った風情が漂うのだった。
いつもならばその景色を楽しみながら玄関へとゆっくり足を進めるのだが、
今の晋一の心にはそんな余裕がなかった。
いつばれるのだろうかとびくびく時を過ごすよりも、いっそのことみなに知らせてしまったほうが
気が楽になるのかもしれないとすら思うのだった。

「ただいま帰りました」
晋一がそう言いながら玄関の戸を引くとそこには珍しく姉の美祢が出迎えに立っていた。
「おかえりなさい。お父様とお母様が居間で待ってるわよ」
晋一はわざわざそんなことをいう美祢に首をかしげた。
すると美祢は背を向けながら肩越しに冷たい視線を当てぼそりと呟いた。
「恥知らず」
その言葉に晋一は凍りついた。
充哉とのことがばれたとしか考えられなかった。

廊下を進み居間へと入ると晋一の父、義則と、母、繭が真剣な顔で椅子に腰掛けていた。
繭の向かいに腰掛ける美祢も相変わらず軽蔑するような視線を投げかけていた。
晋一が腰掛けると父親の義則が口を開いた。
「・・・美祢から聞いたんだが・・・お前、その・・・」
そこで義則は咳払いをひとつして晋一を見据えた。
「本当なのか。男の子と・・・その、そういう関係にあるというのは」
晋一は頭のほうから背筋に掛けて冷たくしびれたような感覚が広がってゆくのを感じていた。
「私、ものすごい恥を掻きましたのよ。今日女学校へ行ったら晋一が男の子と口付けを交わしていたという噂が流れているんですもの」
晋一は美祢のその言葉を聞き、間違いなく百合子だ、と思った。
それ以外、晋一と充哉のことを知っているものは思い当たらなかった。
「本当なのか」
じっと机の一点を見詰めたまま動かない晋一に、義則は強い声でもう一度繰り返した。
晋一ははっと父親の眼を見たが、何を言って良いのか分からなかった。
「本当なのか」
義則がもう一度繰り返す。
晋一は搾り出すようにしてやっと声を出した。
「・・・はい」
途端、母親の繭は手を口に当て、今にも泣き出しそうな表情をした。
義則は怒りに絶えるような顔をして唸るような声をだした。
「どういうことが分かっているのか」
晋一は黙って目を伏せた。
「お前一人の問題じゃない。噂が広まれば私の仕事にも影響が出るんだぞ」
それでもなお黙っている晋一に、義則は声を荒らげた。
「分かっているのか!」
分かっている。それがどんなにこの家族にとって重要なことかは分かっている。
実際父親の仕事のおかげで晋一は何不自由なく暮らしていけるのだ。
けれどその反面、晋一はどこか心の隅に冷めた思いが広がって行くのを感じていた。
晋一はゆっくりと視線を義則に合わせた。
義則は深く息を吸い、自分を落ち着けるようにしてもう一度、今度は静かに口を開いた。
「相手の男の子とはもう会うな」
晋一は父親を見詰めたまま、頷きもしなければ、首を横に降ることもしなかった。
義則はそれ以上何も言わぬまま席を立つと居間を出て行ってしまった。
「晋一さん・・なんでなの・・」
しばらくして母親の繭が目に涙をためながら震える声でそう呟いた。
そのブラウスの白がまぶしかった。
晋一は無言で席を立つと自分の部屋へと向かった。
背中に感じる美祢の刺さるような視線が痛かった。

晋一は自分の部屋に入ると障子を閉め、電気もつけないまま畳の上に横になった。
障子が月明かりでぼんやりと青白く光る。
晋一は両腕で顔を覆うとその下で溜息をついた。
今日、自分が杉林で充哉に言った言葉が思い出される。
『大丈夫だよ。充哉。きっとなにも起きない。誰もぼくらのことを邪魔なんかしない』
「そう。大丈夫だ。大丈夫・・・ぼくは充哉を好きなだけなんだ・・・」
呟きながらも、現実はそううまくは行かないと、
晋一は思い始めていた。





美祢の通う女学校内で噂が収まってくれればいいという晋一の思いはあっけなく裏切られた。
議員の息子である晋一に直接何か言うものは誰も居なかったが、
学校の中で周りの態度が日に日に変わってゆくのを晋一は痛いほどに感じていた。
どこか気遣うような態度を見せる友人、急によそよそしくなる友人、
態度の変化はいろいろだったが、晋一はそれを気にしないよう努め、淡々と学校生活を送った。
ただ、大きな不安は充哉だった。
噂が広がるのと同時に充哉は元気を失くしていった。
晋一は充哉の笑顔が好きだったが、
最近充哉がみせるそれは無理してつくっているとしか思えず、
その姿は晋一の目にひどく痛ましく映った。



「まだ、その充哉という子とは会っているのか」
ある日の朝、食事中にそう言った父、義則の言葉に晋一はぎくりとした。
「・・・父さん、充哉の名前、知っていたんですか」
目を合わせないままそう言った晋一の言葉を無視して、義則は続けた。
「遅く帰ってくるときはいつもその子と会っているんだろう」
「男二人で何しているのかしら。想像しただけで鳥肌が立つわ」
美祢が横からそう口を出した。
晋一が充哉と付き合っていると知ってから、美祢はやっと晋一の欠点を見つけたとばかりに、
顔をあわせれば「気持悪い」だの、「家族の恥」だと言って晋一を罵った。
「美祢!」
母親の繭はそんな美祢を青い顔で戒めると、義則にぎこちない笑顔を向けた。
「義則さんも、食事中はその話は、ね。それよりご飯のお代わりはどうですか」
義則は「いい」と冷たく言い捨て再び晋一を見据えた。
「会うのはやめろと言ったろう」
晋一は深く息を吸うと箸をおいた。
「父さん。ぼくは充哉と別れる気はありません。何があっても。誰になんと言われようと」
晋一は言い終えると席を立ち、居間を後にした。



けれどその数日後、いつものように弓道場の裏の杉林で会うと、
充哉は突然不安そうに口を開いた。
「晋一・・・ぼくたちもう会わないほうがいい気がする・・・」
晋一が驚きに声を出せないでいると充哉はさらに続けた。
「だって・・だって、晋一のお父さん、もうすぐ選挙じゃないか・・」
けれど言いながらもその目には涙が溜まり、今にもこぼれそうだった。
晋一は思わず充哉の肩をつかみその眼を見据えた。
「充哉、そんなこと気にしないでいい。父さんのことは関係ない。ぼくが充哉を好きなんだ」
充哉の晋一を見詰める目から涙が一粒こぼれた。
「それに、ぼくたちのこと位で選挙に影響なんか出ない。だから・・・
だからもう会わないなんて言わないで、充哉。ぼくは充哉が居なかったらもう生きていけないよ」
いつしか充哉の目からはとめどなく涙が流れ、嗚咽さえ漏らしていた。
そのとき晋一は何が充哉をそんなに追い詰めるのか、
そしてさらに追い詰められた充哉がどんな行動に出るのか、
全く知らないままでいた。






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