「ぼくたちもう会わないほうがいい気がする」
そう言った先程の切羽詰った充哉の顔が頭に浮かぶ。
あんなふうに嗚咽を漏らして泣く充哉を晋一は初めて見た。
そこまで充哉が追い詰められていたなどとは晋一は思っていなかった。
もしかしたら充哉は、晋一が学校で感じている周りの変化よりも
ずっとひどい扱いを周りから受けているのかもしれない。
充哉のことだからそのことを晋一に訴え、泣きついたりはしないかもしれない。
晋一は舌打ちをしたい思いだった。
もっと自分に不安をぶつけて愚痴をこぼしてくれれば充哉も楽になるかもしれないのに。
今日も黙って涙を流すだけで、あんなことを言われた、こんなことが辛い、などということは一言も言わなかった。

充哉は心がもろいくせに我慢しすぎる。
晋一はそんなことを考えながら家へと帰る道をたどっていた。

家の門の前まで来た晋一はそこから出てくる人物に足を止めた。
夕日に照らされ、背中まで伸びる黒髪を揺らしながら歩いてくるのは百合子だった。
その姿は紛れもなく美しいものだったが、今の晋一にはこの世で一番醜いものに見えた。
この一連の出来事の元凶である百合子に、晋一は腹のそこから怒りがわいてくるのを感じていた。
百合子は晋一をみとめるとにこりと笑い、済ました声で「御機嫌よう」と首を微かに傾けた。
晋一は衝動的にその百合子の手首をつかむと門の横の板垣に押し付けた。
「いたい!」
百合子は顔をしかめそう小さく叫んだ。
「ぼくたちが感じている痛みに比べたらそんなものなんでもない」
晋一は百合子の手首をつかむ手に力を入れ、けれどできるだけ静かに、そう言った。
すると百合子はきっと晋一を睨みつけた。
「そんなに苦しいのなら別れてしまえばいいのよ。
・・・第一、私が痛みを感じていないとでも言うの。私はあなたが好きなのよ。
それなのにあなたはあんななんでもないような男を好きだなんて・・・!」
晋一はかっと頭に血が上るのを感じた。
次の瞬間、百合子の手首を一層強く板垣に押し付けると、晋一は声を荒らげた。
「ぼくを好きだって!?勘違いもいいところだ。あなたはぼくが充哉を好きである程度のかけらも、
ぼくを好きなんかじゃない。そうでなかったらこんなことしない!
あなたはただ、自分が拒まれたから、恥を掻かされたから、
その相手に幸せになってほしくないんだろう!」
途端、晋一は自分の頬に衝撃が走るのを感じた。
百合子に頬を叩かれたのだと気付くまで少し間があった。
驚いて百合子を見ると、その瞳はいまだ晋一を激しく睨みつけているものの、
そこには微かに涙が浮かんでいた。
「分かっていないのはあなたの方よ。愛には様々な形があるんだから!」
そう言うと百合子は晋一の手を振り解き、走っていってしまった。
晋一は百合子の姿を目で追うこともせす、ただぼんやりと自分の手を頬に当てながらひとり呟いた。
「それなら、きっと、あなたの愛の形は間違ってるんだ・・・」


家に入ると居間には不機嫌そうな義則がテーブルに腰掛けていて晋一をうんざりとさせた。
「また、充哉君と会ってきたのか」
晋一はそれを無視して居間を横切ろうとしたが、次の瞬間、義則の言葉に思わず足を止めた。
「もう会わないとでも言われたか」
晋一は立ち止まったまま拳を握り締めた。
「・・・充哉になにか言ったんですね」
「・・・何のことだ」
わざとらしいほどにそ知らぬ顔でそう言う義則を振り返ると、晋一ははっきりと言った。
「残念ですけれど、ぼくたちは、決して会うのをやめる気はありません」
その瞬間悔しそうにゆがんだ義則の顔を目の端に止めながら晋一は背を向け居間を後にした。





その週の終わり、晋一は杉林でもう一度充哉に会った。
公に連絡を取ることができなくなった二人は、放課後、杉林で待ち合わせ、
十分ほど経っても片方が来なかったらその日はその日で帰ることにしていたのだった。
二日ぶりに会った充哉はまたあの痛々しい笑みを浮かべていた。
晋一はその微笑みを見るたび、噂はそのうち消えてなくなる、そうすれば、
充哉ももとのように元気を取り戻すと、そう自分に言い聞かせていた。

この週末は会えないかもしれない・・・父さんが多分家から出してくれない」
晋一は充哉を腕に抱きながら静かにそう言った。
充哉は寂しそうに目を伏せると「うん」と、小さく頷いた。
そんな充哉を見て、晋一の胸には再びやりきれない思いが広がる。
なにが悪くて、自分は好きな人にこんな顔をさせなければいけないのだろう。
晋一は暗くなる気持を払うようにできるだけ明るい声を出した。
「・・・そうだ。週が開けた月曜日は久しぶりに桜を見に行こう」
そう言うと充哉は目を見開いて晋一を見詰めた。
「大丈夫。今までだってたった一度見つかっただけだろう?それに、もうすぐ桜も終わる季節だし」
すると充哉はうれしそうに頬を染めた。
晋一はそれをみてほっとし、くすりと笑った。
「なんだか充哉はぼくより桜が好きみたいだね」
「そ、そんなことないよ!ぼくは晋一が一番好きだって、前もいったじゃないか」
久しぶりに元気にそう言う充哉を、晋一は思わずぎゅっと抱きしめた。
充哉もゆっくりと晋一の背中に回した手に力を入れた。
このままときが止まってしまえばいいと、その瞬間、二人は切実にそう願っていた。





本当にそのとき時間が止まってしまっていたらどんなに良かっただろう。
けれど現実は無常にも時を刻み、あっという間に日は暮れ、充哉は帰り道を急いでいた。
充哉と晋一が通う学校は町から少し外れたところにあり、充哉の家もその学校の近くにあった。
沈みかけた夕日が当たりの草むらを照らす。
充哉は家へ着くと鍵を開け中に入った。
そこには誰も居なく、台所の水道からぽたりぽたりと水が滴る音が微かに響くだけだった。
充哉は今日も仕事が遅いのだろうと思い、居間の明かりをつけると
学生鞄から教科書を出して広げた。

けれどその夜、そして永遠に、充哉の両親が家へ帰ってくることは無かった。





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