その週末は晋一にとってこの上なく退屈なものだった。
晋一は仕方なく自分の部屋に引きこもり、日の殆どを本を読むことに費やした。
この家は晋一にとってもはや居心地のいいものではなくなっていた。
廊下で姉とすれ違えば軽蔑と優越の混じった視線を投げかけられ、
居間で父と顔をあわせれば絶望のような焦燥のような表情を見せられ、
母にいたってはまともに晋一と目をあわせようともしなかった。
晋一は部屋と縁側を仕切る障子をそっと開けた。
そこは中庭に臨んでいて、庭に植えられた大きな桜が目に入るのだった。
桜の木にはもう殆ど蕾が残っておらず、あとはもう散るのみに見えた。
晋一はその桜を見て、充哉を思い浮かべた。
月曜日、きっと桜の下で口付けをしたら彼はきっとまた頬を染めるだろう。
晋一は思わず口元をほころばせた。
早くこの日曜日が終わってくれればいい。
ただそれを願っていた。



ところが週が開けたその日、登校した晋一はどこか周りの雰囲気がざわついているのを感じた。
最初は何か皆の興味を引く新しいことが起きたのかと思い、
これで少しは自分と充哉の関係を噂するものも減るだろうかとほっとした。
ところが偶然廊下をすれ違った生徒たちが口にしていた噂に、晋一は耳を疑った。

「田畑充哉の両親が自殺したらしいぞ」

考える前に身体が動いていた。
晋一は咄嗟に振り返ると名も知らぬ生徒の腕を思い切り掴み、引き止めていた。
「今、なんて言った!?」
腕を掴まれた生徒は一瞬驚き、むっとした顔で振り返ったが、
晋一の顔を見るなり怯えたような表情を浮かべた。
「なんていったんだ!?」
もはや周りのことなど気にならなかった。晋一が声を荒らげもう一度問うと、
腕を掴まれた生徒はびくりと身体を引いた。
連れ立っていた友人も同じように怯えた表情を浮かべ、
晋一の顔を見詰めながらも隣の友人をちらちらと盗み見ては落ち着かず、
早くその場を立ち去りたいという風だった。
「た・・田畑充哉の両親が自殺したって・・・」
掴まれた腕を放そうと引っ張りながら、その生徒は小さな声でそう呟いた。
晋一は頭を強く殴られたような衝撃を受けた。
目の前の世界が揺れるようだった。
「・・・自殺の原因は・・・」
それでも目の前の学生の腕を放すことはせず、むしろさらに力を込め、晋一は掠れるような声でそう聞いた。
すると腕を掴まれていない方の生徒が口を開きかけた。
けれど晋一に腕を掴まれている生徒がその生徒を慌ててさえぎるように首を横に振った。
「し、知らない!俺たちは知りません!」
けれど晋一は口を開きかけた生徒のほうに向き直り、もう一度聞いた。
「原因は」
その生徒はしまったというような顔をして横の生徒をちらちらと見ながら口を開いた。
「・・・あの、し、商売がつぶれて・・・」
晋一はすかさず質問を続けた。
「彼らが自殺したのはいつ」
「・・ど、土曜日に・・・」
「・・なぜ商売がつぶれたの」
晋一がその質問をしたとたん、腕を掴まれている生徒が再び焦ったような声を出した。
「それは知らない!本当に知らないんだ!」
晋一はそう言った彼を見もせず、先ほどから質問に答えている生徒を見詰めて言った。
「ぼくはこの彼に聞いているんだ」
見詰められた生徒はその視線から逃れるようにして隣の生徒を見た。
隣の生徒は険しい表情をうかべ、制するようにしたが
晋一に見詰められたままの生徒はついに口を開いてしまった。
「さ、坂下議員が圧力かけたって・・・」

晋一は目の前が暗くなる思いだった。
けれどすぐにその色は真っ赤に変わる。怒りのために身体が震える。
坂下議員とは、間違いなく、晋一の父親のことだった。

次の瞬間、晋一は駆け出していた。
いつも、どんなときでも、取り乱した晋一など見たことのない級友は、すれ違いざまに彼を見るたび目を丸くした。
それほどに晋一は充哉のことを心配していた。
充哉にとって、どれ程の衝撃だろう。
恋人の親が自分の親に圧力をかけ、その結果自分の親が自殺してしまったなど。
晋一は今すぐにでも父親に殴りかかりたい思いだった。
仕事場へ向かい、みなの前で息子に殴られるという恥をかかせてやりたかった。
けれど、それよりも何よりも、今は充哉の様子が心配だった。



普段は、噂が広まってからはなおさら、顔を出すことのない充哉の教室まで来ると、
生徒たちがこちらに注目するのが分かった。
けれど晋一はそんなことを気にすることもなく、一番近くにいた生徒に聞いた。
「田畑充哉、今日来ている?」
するとその生徒は控えめに首を振りながら「来ていないよ」と言った。
晋一はすぐにその教室を後にすると学生鞄も取らぬまま学校を後にした。
やはり衝撃でなにもする気になれないのだろうか。
家にひとりでこもっているのだろうか。
晋一はひとりで畳にうずくまり涙を流す充哉を思い浮かべ、
そう思うと居ても立ってもいられなくなってしまったのだった。


けれど充哉の家に着けばその玄関に鍵は掛かっておらず、中にも誰も居なかった。
晋一はどこか嫌な予感を覚え、すぐに来た道を元へと戻った。
一緒に来る約束をしていた桜林の土手を見てみてもどこにも居ない。
学校の弓道場の裏の杉林にも居ない。
晋一は焦りながらも他に行くところが思いつかず、
終いには途方に暮れ、気付けばもう一度、桜林の土手の中へと分け入っていた。

充哉が好きな桜。
晋一は充哉がなぜ桜が好きなのかとうに気付いている。
なぜ、桜の下で口付けを交わすといまだに頬を染めるのか。
桜の下は、今から丁度一年ほど前、充哉と晋一が初めて会った場所だったのだ。
だから、桜の下で口を吸えば出会った頃のことを思い出して恥ずかしくなるのだろう。

晋一はぼんやりと桜の木の幹にもたれかかった。
そこでふと方に感じた違和感と、かさりとした不自然な音に晋一は身体を起こした。
見るとそこには 『坂下晋一様』 と書かれた真っ白な封筒が、
桜の木の幹に釘で止めてあったのだった。




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