次の日も、その次の日も、晋一は祈るような気持で木戸を見詰めていたが、
そこに充哉が現れることはなかった。

あの時晋一が充哉に口付けたいという衝動を抑えなかったのは、
もうこの永い不安から逃げ出したかった。
もしもこのまま充哉が拒否しなかったら自分は『解放』されるのだろうと、
頭の隅でそう思いながら晋一は充哉に口付けたのだ。

けれど充哉に拒否されてしまった今、晋一はどうして良いのかわからなかった。
晋一は上半身を壁に預け畳の上に座りながら空を見詰めた。
日に焼けた障子から太陽の光がすけ、ぼんやりと色あせた明かりが室内を照らす。
晋一はなんとなく、充哉と初めて出会ったときのことを思い出していた。


桜が満開だった。
日が傾きかけている中、晋一は帰り道を急いでいた。
途中桜林の土手を通るとき、さすがにその桜の美しさに目を惹かれ足を緩めた晋一は、
土手の下から鼻をすする音が聞こえてくるのに気が付いた。
こんな時間になんだろうと、晋一は気になり桜の中に入っていった。
すると自分と同じ制服を着た少年が、桜の木の根元にかがみこんでいる。
晋一が背後から近づいているのにも気付かない様子で、
時折鼻をすすっては袖で目元をぬぐっているようだった。
晋一はどこかほうっておけない気になり後ろから声をかけた。

「どうかしたの?」
少年はびくりとこちらを振向いた。
そして晋一の顔をみとめると慌てて顔を伏せ目元をぬぐった。
晋一はさらに少年へと近づくと自分もそばに屈んでその顔を覗きこんだ。
「だいじょうぶ?」
すると少年は晋一の視線から逃れるようにして顔を逸らし立ち上がった。
「だ、大丈夫ですから・・・」
そう言って少年は背を向けてしまった。
二人の間にしばらく沈黙が流れる。
晋一が小さく溜息をつき、諦めて土手を登ろうとしたとき、少年のか細い声が聞こえた。
「・・・時計、なくしちゃって・・・」
晋一が驚いて振り返ると、目元を潤ませた少年が晋一を見上げていた。
「おじいちゃんの、形見の懐中時計なんだ・・・」
満開の桜の中、眉をひそめ、濡れた睫毛で見上げる少年の顔は、
男ながらもどこかどきりとさせるものがあった。

それが、充哉だった。


晋一はゆるりと視線を障子にあてた。
桜が見たくなり立ち上がり障子を開ける。
そのまま縁側を降りると桜の木の下に立った。

―充哉。

心の中で名前を繰り返す。
晋一は肩を木の幹に預け、そっと目を閉じた。
桜の花の間から差し込む光が瞼に透ける。

と、次の瞬間、木戸がきしんだ音を立てた。
晋一は咄嗟に目を見開いた。

充哉だろうか。
心臓が音を立てる。
胸はこの上なく高鳴っているのに、緊張のため身体がこわばって動かない。
耳に届く自分の心音に混じって木戸が音を立て、開いた。

充哉が立っていた。
戸惑ったような表情を浮かべている充哉。
晋一は自分が泣き出しそうになっていることに気付いた。
扉が閉まる音が響く。

「もう来ないかと思った」
咽の奥から搾り出すようにそう言った。
下手に声を出すと、そのまま涙があふれ出てしまいそうだった。

充哉は無言で晋一のそばに寄った。
次の瞬間、晋一は何が起きたか図りかねないでいた。
充哉が自分に口付けたのだと気付いたのは、彼が唇を離した頃だった。
晋一が目を見開くと、充哉は恥ずかしそうに目を伏せた。
晋一はうれしさが身体の底から湧き上がるのを感じた。
信じられない思いで目の前の充哉をそっと抱きしめると、充哉もその腕を晋一の背中へとまわした。
―これは、充哉が、自分の思いに答えてくれたと思ってよいのだろうか―
時を越えて、もう一度自分の腕の中に身を任せる充哉に、晋一は胸を熱くした。
晋一はそっと身体を離し、充哉の顎に手をかけ、もう一度口付けた。

今度は遠慮することなどない。
その思いが口付けをさらに深くする。
舌を割りいれ絡ませれば、時折小さく鼻を鳴らしながらそれに答える。
じわじわと身体の奥から沸く熱に、晋一は一度唇を離し、今度は額に口付けながら
充哉のシャツのボタンに手をかけた。
そこで充哉が微かに身じろいだ。

晋一は少し冷静になり、手を止め、充哉を見詰めた。
口付けの余韻に頬を上気させる充哉はこの上なく美しい。
晋一はゆっくりと口を開いた。
「ぼくは、充哉を最初にみたときからこうしたかった。充哉に惹かれてた。・・・でも、怖かったんだ」
目の前の充哉は無言で晋一を見詰め返した。
その表情はどこか困惑しているようだった。

「ねえ、充哉は、ぼくのことを、好き?」
充哉は晋一を見詰めたまま頷いた。

お互いの思いをはっきり確認した途端、晋一は、うれしさを感じたのと同時に、不安と、
そしてあの林で出会った不思議な少年に対する複雑な思いが心をよぎった。

―ああ、あの少年は、なんて天邪鬼なのだろう。

思いを通わせるということは、充哉も自分のことを好きになることではないか。
そんなことは分かりきっていたのに。
もし、もしも『解放』が、この世から消えることを意味するのだったら、
晋一は、充哉をこの世に残して行くことになってしまう。
自分の孤独を終える代わりに、世界で一番愛しい人に、孤独を味あわせることになるなんて。

目の前の充哉は、相変わらず困惑した表情で晋一を見上げている。
「充哉・・・充哉は信じる?ぼくがこの前言ったこと」
晋一がそう聞くと、充哉は瞳を泳がせた。
「・・・分からない・・・。でも、ぼく・・・」

その答えに、けれど晋一は、信じてもらえなくても良いと思った。
信じる、信じないよりも、晋一への思いでここまで足を運んでくれたということがうれしかった。
同時に、そんな充哉をひとり残してしまうことに後ろめたさを感じ、晋一は目を伏せた。

「・・・君は、ぼくを、この不老不死の身体から開放してくれるかもしれない。
でも、その後、ぼくはどうなるか分からないんだ。
それが、少し、怖い」
晋一はそこで再び充哉を見詰めた。
「・・・でも、これ以上の孤独は、もっと、ずっと、怖いよ」

少しの沈黙の後、充哉がぎゅっと晋一を抱きしめた。
晋一は心が押しつぶされてしまいそうななか、再び充哉に口付けた。



久しぶりに触れる充哉の素肌は、あの頃と少しも変わっていない。
晋一は充哉のいたるところに口付けの雨を降らせる。
これが最後かもしれない。
そう思うと、印を刻み付けずに入られなかった。
白く滑らかな肌をきつく吸うたびに、充哉はぴくりと身体を震わせ、短く声を上げる。
その上気した肌も、濡れた睫毛も、全てがあの頃のように晋一を誘う。
身体をひとつに合わせれば、充哉は咽をのけぞらせ、そこから掠れた悲鳴を上げた。

夢中で充哉の身体に溺れた。
どれくらい、この瞬間を夢見ただろう。
晋一は気の遠くなる快感と感動の中、自分の一部がさらさらと風になびくのを感じた。
ああ、自分も桜の花びらになるのだ。
なぜかそれが理解できた。
充哉は悲しむだろうか、おこるだろうか、自分を憎むだろうか。
見れば桜も散っている。
まるで雨のように。
決して朽ちることのなかった花が、音もなく、はらはらと。

―充哉。愛してる。

そう囁いた声は花びらと共に風に流れ、
晋一の意識は遠のいていった。






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